歴代天皇90 亀山天皇

歴代天皇90 亀山天皇

後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。

正嘉2年(1258年)8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、翌正元元年(1259年)兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚。即位には父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向があったとされる。

文永2年(1265年)には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。

院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉ったことは史実だが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。

文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、文禄年間、筑前国領主小早川隆景が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。

文永3年(1266年)、第6代鎌倉幕府将軍となっていた異母兄の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康王が将軍に就任した。

文永4年(1267年)には皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生み、翌文永5年(1268年)後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てた。

文永9年(1272年)2月に後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天の君の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされたため幕府に問い合わせたところ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い返し、大宮院による内意は後深草上皇ではなく亀山天皇であったとする証言から亀山天皇親政と定まる。文永11年(1274年)1月、亀山天皇は皇太子世仁親王に譲位して院政を開始。亀山上皇は院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「徳政興行」と評された。

また、後深草上皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う両統迭立の端緒となる。後深草上皇が出家の意向を示すと、幕府は持明院統の冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁(伏見天皇)の立太子を推進。建治元年(1275年)に熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる。続いて弘安9年(1286年)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下された。

だが、亀山上皇は関東申次の西園寺実兼との不和に加えて、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかった事が幕府を刺激する。このため弘安10年(1287年)10月には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる。さらに、鎌倉では鎌倉将軍の惟康親王が廃されて後深草上皇皇子の久明親王が将軍になり、持明院統に有利な情勢が続いた。

正応2年(1289年)9月、亀山上皇は南禅寺で出家して、法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている。また、笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、持明院統の後伏見上皇(大甥にあたる)の願いを受けて、乾元元年(1302年)には蹴鞠を、翌年には朗詠を伝授している。

正応3年(1290年)、宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きた。この事件は初め北条氏による霜月騒動に連座し、所領を没収されたことによる浅原の反抗かと思われたが、大覚寺統系の前参議三条実盛の関与が疑われ、それを受けて伏見天皇と関東申次西園寺公衡は亀山法皇が背後にいると主張した。

しかし後深草法皇はその主張を退けた。また亀山法皇も幕府に事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。

孫の後二条天皇朝であった嘉元3年(1305年)9月に亀山殿で崩御、宝算57。遺詔で末子であり当時3歳の恒明親王の立太子の意思を示し、親王の伯父である左大臣西園寺公衡が実現工作に動いたために、後宇多上皇の強い反発を招き大覚寺統内部に混乱を招いた。

なお、安嘉門院の猶子となっていたようであり、後深草上皇(持明院統)が長講堂領を手にしていたのに対し、弘安6年(1283年)9月に安嘉門院が没すると、幕府に使者を遣わして裁定を受け、安嘉門院の遺領(八条院領)を半ば強引に相続した。以降は、子孫の大覚寺統に受け継がれ、後醍醐天皇まで大覚寺統の主な経済基盤になった。

 

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