バグダッド 大いなる知恵の都

バグダッド  大いなる知恵の都

ドキュメンタリー 文明の道「第06集 バグダッド 大いなる知恵の都」

 

 



 

約1100年前、バグダッドは世界最大の都市で「平和の都」と呼ばれて栄えていました。中心に周囲7キロの円形の城がそびえる街には、イスラムの教えのもとに多民族が共存。最先端の科学や医学、高度な貨幣経済が発達し、世界に名高い文学「千夜一夜物語」の舞台でもありました。その繁栄はどのように成し遂げられたのか。第6集は大いなる知恵が集ったイスラム帝国の都・バグダッドが繁栄を極めた秘密を探ります。
52分

900年から1200年の間は、イスラム文明の黄金期であり、イスラム教徒の間で学問が高まり、イスラム教徒はこの間、医学、植物学、数学、化学、物理といった分野で目覚ましい発展を遂げました。この時期、イスラム教徒と中国人が、学問を巡って競い合っている中で、キリスト教徒のヨーロッパ人は大きく遅れを取っていました。その後、イスラム文明は衰退に向かいます。

イスラム教の優れた重要な特徴のひとつは、生まれたばかりのイスラム社会で、知識や学問を広める土台を整えたことです。イスラム教徒やイスラム政府の関係者の間には、柔軟で寛容な精神が存在していました。イスラム文化は、柔軟で中庸な精神が衰退に向かっていたときに、学術的な活動の舞台に現れました。当時の世界には二大帝国が存在し、そのうちの一つのビザンツ帝国は、日々、キリスト教の狂信的な考え方に沈み込み、次第に哲学や学問とのつながりを絶っていきました。東ローマ帝国のユスティニアヌスによる哲学的な活動の停止は、ローマ社会が文明や学問との関係を絶つことに等しいものでした。

 

イランでも、サーサーン朝の皇帝、ホスロー1世が、知識や思想に関心を示しましたが、それらに対して温和で寛容な態度をとることはありませんでした。宗教的、民族的に偏った考え方にとらわれていた、このような世界において、イスラムは文明と知識に新たな息吹を吹き込みました。実際、イスラムによって、民族的、宗教的に偏った考え方の代わりに、啓典を信じる人々を相互に認める寛容な考え方が広まり、対話の発展や知識への関心が高まっていったのです。

イスラム初期にイスラム文明が形成されたもうひとつの理由は、イスラム教徒の間で、好奇心や独創性が広まったことでした。イスラム教徒は、キリスト教の内容に存在しない事柄を不当なものと見なしていた中世のヨーロッパ人とは異なり、創造世界についての研究を奨励し、その秘密に対する探究を、神への知識を強化し、神のしるしを発見するための手段としていました。そして、それに宗教的、精神的な側面を与えていたのです。このような独創性や好奇心、思想家や偉人の記述だけに満足しなかったことが、イスラム教徒が新たな発見を行うきっかけとなりました。一方で中世のヨーロッパでは、そのようなことは一切見られませんでした。

この時期、学問という言葉は、学ぶべきすべての事柄を指すものでした。イスラム教徒の間では、有益な知識とは、宗教的な知識に限られたものではなく、人間の生活の向上に役立つようなすべての事柄が、有益な知識と見なされ、それを学ぶことは、礼拝行為と考えられていました。さらにイスラム教徒は、表面的には学術的な意味がなく、自分の好奇心を満たすためだけに見えるような、さまざまな事柄における探究や研究に取り組みました。

 



 

 

この他、イスラム文明や知識、学問の繁栄の要因として、さまざまな文化的、学術的な経歴を持つ民族の間にイスラムが作り出した統一が挙げられます。彼らが持つすべての好ましい伝統や慣習を取り入れ、それぞれの民族の利点を、イスラムの生まれたばかりの社会の利益になるような形で利用したのです。このようなイスラム教徒の新しい社会は、一つの言語、つまりアラビア語という重要な手段によって具現化されたのです。

イスラム社会が形成された後の数百年は、すべての人が、外国語を書くことに対して屈辱を感じることなく、アラビア語で記していました。なぜなら、アラビア語は、神が使った神聖な言葉とされ、特定の民族の言葉とは見なされていなかったからです。イスラムでは、個人や社会を見分ける枠組みは、肌の色や言語、民族ではなく、敬虔さに基づいており、イスラム共同体は皆、言語における優越性を否定し、アラビア語を神聖な言語と見なして、それを習得、利用していました。言語が統一され、他の民族の学術的な書物がアラビア語に翻訳されたことで、イスラム文明が急速に学問の頂点を極める土台が整いました。

イスラム文明の黄金期の知識や学問の拡大に大きな役割を果たしたこのほかの要素に、他者の意見を無条件に取り入れるのではなく、論理や熟考が注目されたことにありました。論理や理性に頼ることは、社会の知識や学問の発展、研究活動の基本です。

イスラム文明のさまざまな時代を見ると、論理や理性が重視されたときには必ず、発展がみられたことが伺えます。このような傾向により、イスラム教徒以外の人々とうまく折り合う精神が形成され、文明的、学術的な発展のきっかけとなりました。

レバノンのキリスト教徒のジャーナリストである、ジョージ・ゼイダーンは、19世紀半ば、イスラム文明の繁栄の理由のひとつは、為政者がイスラム教徒以外の学者によい待遇をしていたことにあるとし、イスラム文明が急速に発展し、アッバース朝の運動の中で学問や文学が進歩した理由のひとつは、為政者たちが、学問の伝達や翻訳に努め、人種や宗教に関係なく、学者や翻訳者を尊重し、支援していたことにあると考えています。そのため、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒などの学者が、為政者のもとに集まっていました。

 

イスラム文明は、その幅の広さや深さ、世界への浸透により、イスラム以外の場所に敵を持っていました。イスラムの広大な領土の敵たちは、この文明を破壊する機会をうかがっていました。十字軍戦争も、そうした機会のひとつでした。この戦争は、キリスト教徒とイスラム教徒の軍事的な対立と見なす以前に、西側のイスラム文明との対立であり、多くの研究者が、その事実を指摘しています。

 

1096年から1291年まで続き、イスラム領土からのヨーロッパ人の完全な撤退につながった十字軍戦争では、十字軍の軍隊は、十字架を自分たちの献身のしるしとして服に着けることが義務付けられていました。そのことから、この戦争は十字軍戦争と呼ばれています。この戦争は、イスラムの力を恐れていたヨーロッパの皇帝や貴族が、宗教的な動機によって始めたもので、キリスト教徒は十字架とともに、聖地占領のために派兵されたのです。

キリスト教徒の攻撃により、イスラム社会はしばらくの間、混乱に巻き込まれました。多くの人々の命や財産が失われ、町や村が破壊されました。イスラム文明の後に初めて、聖地が十字軍に占領された1099年、十字軍は1週間かけてイスラム教徒を殺害し、アクサーモスクでは、6万人以上のイスラム教徒が殺害されました。トリポリが十字軍に占領された1109年には、10万冊の本が焼かれました。

十字軍の火がまだ消えていなかったころ、東から新たな襲撃がありました。ハーラズム朝がイスラム領土の東部を統治していた時代、チンギスハンが率いるモンゴル軍が、イスラム領土になだれこんだのです。

モンゴル族の襲撃は、1223年に始まりました。ハーラズム朝の首都が陥落された後、ホラーサーン地方の町が次々に占領され、強奪や殺害にさらされました。チンギスハンと彼の後継者たちの後、フラグハンの時代に、イスラム世界がモンゴル族に占領されました。彼はイスマイール朝を倒し、アッバース朝の最後の皇帝を殺害し、524年続いたアッバース朝を終わらせると、イスラム領土をモンゴル族の間で分割しました。

モンゴル族は、文化的にイスラムの文化よりも弱かったため、それに柔軟に対応しました。しかし、彼らの攻撃によってイスラム世界、特にホラーサーン地方が蒙った被害は、非常に深刻なもので、イスラム文明に大きなダメージを与えました。

ホラーサーン地方は、イスラム文明の発祥地であり、現在のイラン北東部、アフガニスタン、中央アジア、トルキスタン地方を含む広大な地域でした。

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