ヘレニズム文化が残したもの

ヘレニズム文化が残したもの

 

ヘレニズムはギリシアにとって最盛期の時代であった。この時期に、ギリシアの文化、権力、支配は当時知られていた全世界に及んだ。ギリシア文化はすでに直前の古典期にその絶頂に達していた。ヘレニズム期にはギリシアはその文化を活発に輸出し、その後それらの地域から生まれてくる文明、即ち、ローマ文明、ユダヤ・ダイアスポラ文明、イスラム文明、そしてキリスト教文明に消えることの無い刻印を残した。

 

 

紀元前4世紀前半、スパルタテーバイアテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、さらにはその力を失墜させて行った。その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国のフィリッポス2世がギリシア本土へ勢力を伸ばしてゆく。特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、ギリシア征服を成し遂げた。ピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結びその盟主となってペルシア遠征を決めたが、前336年暗殺された。その後を継いだのが大王アレクサンドロス3世である。

 

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ギリシアの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロスはトリバッロイ人の反乱、イリュリア人の大蜂起、テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、コリントス同盟の会議を招集、父王フィリッポスの意志を次いでペルシア遠征を行うことを決定した。前334年春、アレクサンドロスはギリシアを出発、大遠征を開始した。前331年ペルシアを崩壊させるとそのまま東進、バクトリア、ソグディアナを越え、インドまで到達し、インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、前323年、アレクサンドロスは熱病のため死去したが、彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった

アレクサンドロスはコリントス同盟の盟主としてのマケドニア王位についたので、ギリシアの同盟諸国(スパルタを除く)に対しても統制する立場にあった。アレクサンドロスはまず北方のドナウ川方面を平定し、さらにテーベが離反するととって返してそれを討ち、ギリシア諸国との同盟関係を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。

アレクサンドロスの東方遠征軍は各地でペルシア帝国軍を破り、短期間で小アジアエジプトメソポタミアを制圧し、前330年にはペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるアレクサンドロスの帝国を出現させた。さらに中央アジアに入りバクトリア地方などを制圧、ソグディアナ人の抵抗を受け、苦戦を続けていたが、前327年春、捕虜となっていたソグディアナ人の豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。

アレクサンドロスはオリエント世界を征服する過程で、エジプトではファラオとしてふるまい、ペルセポリスではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。このような東方か政策はマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるようになった。中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした彼の計画は、多くの武将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。

前323年、バビロンで熱病にかかり32歳余で死んだ。その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、ヘレニズムという新たな文明の出現をもたらした。

レクサンドロスはギリシア文明とオリエント文明の融合をめざした。

民族融合を考えたようです。ギリシア兵士とペルシア貴族の子女との集団結婚なんていうのをやります。自分自身もペルシア王族の女性を妻にする。
広大な帝国を治めるためにもペルシア人をどんどん登用します。アレクサンドロス自身がペルシアに傾いていく。

当時のヘレニズム諸国

アンティゴノス朝マケドニア王国 セレウコス朝シリア王国 アッタロス朝ペルガモン王国 グレコ・バクトリア王国 グリーク朝インド王国 プトレマイオス朝エジプト王国

これらの国は東地中海からオリエント地域を支配し、ギリシア風の「ヘレニズム文化」を維持・発展させたが、次第に共和政ローマが東へ進出することで滅ぼされ、ついに紀元前30年、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された。このことによって、ヘレニズム時代は終わったとされる。

しかし、その後も文化的にはギリシアはローマを圧倒し続けた。ギリシア語は東地中海地域の共通語として使われ、ヘレニズム文化が栄えた。また、ローマ帝国分裂後も7世紀以降の東ローマ帝国では支配地域・住民がギリシャ語圏となったためにヘレニズムの伝統が重視され、キリスト教と融合した「ビザンティン文化」を生むことになった。

イスラーム文明は、先行する西アジアのメソポタミア文明、エジプト文明、ヘレニズム文明と、征服者として登場したアラブ人のもたらしたイスラーム教とアラビア語が融合して成立した。ギリシャ文化は、イスラム文明の興隆に大きな影響を与えた。ウマイヤ朝の合理主義的な進取の気性は、後継のアッバース朝にも受け継がれた。アッバース朝のカリフたちは、ギリシャ古典の翻訳を奨励した。830年にバグダードに設立された「英知の館」は、当時世界最大の学問所であった。こうした流れにより、イスラム教は「都市化」していった。特に主流派であるスンニ派は、国家権力と結びつき体制に順応する都市宗教であり、砂漠的精神を失った。単純化して言えば、スンニ派は『ビザンツ化したイスラム』である。アッバース朝は、ササン朝ペルシャの遺産も継承しており、ペルシャ文明の影響も受けた。これが、ぺルシャ(イランなど)にイスラム教が「シーア派」として定着する事に繋がったと思われる。

現在、イランと言われる地域に生活していたのは、もともと農耕や放牧で生計を立てていたイラン系民族でした。彼らは、アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれた後、東方遠征の末アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の領民となり、アレクサンドロスの死後、彼の広大な領土は分割され、イラン地方にはセレウコス朝シリアが建てられます。

セレウコス朝シリア

とは、アレクサンドロス大王の配下だった武将セレウコスがイラン高原を含む西アジアに建国した国です。セレウコス朝は多くのギリシア人移民を受け入れ、一時期繁栄しますが、長く続きませんでした。 領内から、2つの国が独立してしまったからです。 弱体化したセレウコス朝は、最終的にローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。

バクトリア(前255頃~前139年)はセレウコス朝内から一部のギリシア系住民が自立し建国した新しい国です。
バクトリアはヘレニズム文化を東方に伝えるという重要な役割を果たします。バクトリアがもたらしたヘレニズム文化は、インドのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すきっかけともなりました。最終的にスキタイ系トハラ人によって滅ぼされてしまいます。

パルティア(前248年頃~後226年)

は、セレウコス朝の支配下のイラン人が建国者アルサケスによって率いられ独立した国です。アルサケス朝パルティアともいいます。
パルティアはその後、ミトラダテス1世のもとイラン地方で強力になり、ローマ帝国とたびたび争いました。ローマ三頭政治のひとり、クラッススは、この時のパルティアとの戦いで戦死しています。栄華を誇ったパルティアも次第に弱体化し、最終的にササン朝ペルシアに滅ぼされます。

パルティアの滅亡後、イラン系のアルデシール1世ササン朝ペルシア(226年~651年)を建国します。ササンとはアルデシールの祖父の名前で、過去に存在したアケメネス朝ペルシアの復興を目指し、都をクテシフォンに置き、ゾロアスター教を国教とした王朝でした。 アルデシールの没後、新たに即位したシャープール1世は、東方ではインドのクシャーナ朝を滅ぼし、他方西方ではシリア地方でローマ軍と激突し、時の皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とするなど、ササン朝の基礎を固めます。
ササン朝は5世紀から6世紀にかけて、異民族エフタルの侵入を経験すると、一時混乱に陥りますが、ホスロー1世がこれを収め、別の異民族突厥との同盟をきっかけにエフタルを滅亡させます。
次のホスロー2世の下、ササン朝の領土は最大になりますが、東ローマの遠征に失敗すると次第に衰退しはじめ、最終的にヤズダギルド3世が新興勢力だったイスラム教徒とニハーヴァンドの戦いでやぶれ、ササン朝は滅亡します。

パルティアはイラン人の国家でしたが、ヘレニズムの影響を強く受けたため、ギリシア文化やギリシア文字を中心に発展していきました。はじめギリシア色の濃かったパルティア文化も、次第にゾロアスター教やその他のイラン的色彩も交わり、独自の文化を創りあげました。

ササン朝の時代になると、ゾロアスター教が正式に国教となり、「アヴェスター」という聖典が編纂されアケメネス朝時代の文化が復活します。

ササン朝では、他宗教の信徒も比較的寛容に扱われ、さまざまな信者が共存していたと考えられています。

3世紀に入ると、ゾロアスター教やキリスト教、仏教などからなるマニ教という新しい宗教が生まれましたが、これはのちに異端とされたので、東方へと伝わりました。また、ヨーロッパ世界でネストリウス派キリスト教が異端とされると、ササン朝を経由して唐の時代の中国にまで伝えられ、中国ではネストリウス派キリスト教のことを景教というようになりました。

このように、ササン朝は東西の文化の中継地として国際色豊かな文化を育んでいきました。ササン朝の工芸を中心とした美術品は、イスラム世界に継承されると同時に、ビザンツ帝国を通じてヨーロッパ世界に、中国を通じて飛鳥時代の日本にまで伝わり、当時の世界のさまざまな地域の文化に大きな影響を与えました。

 

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