ユーゴスラビアの崩壊

ユーゴスラビアの崩壊

1989年以後の世界を象徴するユーゴスラビア連邦の解体。

ユーゴスラビアの各共和国や自治州の歴史と現実を見据え、なぜユーゴスラビアが分裂したか、西側諸国や国連はなぜ紛争を止められなかったのか

 

ユーゴスラビアの崩壊①

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ユーゴスラビアの崩壊②

1991年6月クロアチア共和国と隣のスロベニア共和国が独立宣言。これに対し、連邦軍は戦車部隊を出動させた。EC首脳会議は、アメリカの力を借りずに事態を解決するべく3人の外相をスロベニアとクロアチアに派遣し、クロアチアでの交渉で停戦合意に至る。ミロシェビッチはセルビア人がほとんど住んでいないスロベニアの連邦脱退は容認し、その分の兵力をクロアチアへの対策に使おう考えていた。そしてECの外相たちに対し、クロアチアに居住する60万人のセルビア人とその地域が連邦に残らない限りクロアチアの連邦離脱は認めないと主張した。
クロアチアのセルビア人たちは自分たちの地域からクロアチア人を排除し、セルビアと統合しようと動き始めていた。ミロシェビッチと手を結んだセルビア急進党のシェシェリら過激派はクロアチアに住むセルビア人の危機感をあおり、志願兵を募集してクロアチア東部地帯に派遣した。やがてセルビアとの国境に近いブコバル郊外のボロボ・セロでセルビア民族主義者の志願兵とクロアチアの武装警官隊との銃撃戦がぼっ発し、セルビア側の勝利に終わる。その夜、クロアチアの民衆の怒りが爆発、クロアチアとセルビアは戦争の泥沼にはまり込んでいく。

1991年7月、連邦軍戦車部隊がクロアチアに侵攻。クロアチア東部に住むセルビア人を保護するという名目で出動したこの軍隊は事実上ミロシェビッチの軍隊だった。派遣された将校のひとりが後にボスニアのセルビア人指揮官となるムラディッチ。彼はクロアチア人の村キエボの警官隊に攻撃を仕掛ける。セルビア人の保護を目的に正規の連邦軍がクロアチアを攻撃した最初だった。連邦軍は次々とクロアチア人の町を奪い、ユーゴスラビアの旗を掲げていった。さらにミロシェビッチの支援を受けてセルビア民族主義者たちが組織した民兵たちはクロアチア人たちを恐怖に陥れ、地域から一掃するという民族浄化を進めていった。

 

9月、ハーグにユーゴスラビアの6つの共和国の首脳が集められた。このユーゴ和平会議議長のキャリントンに、ミロシェビッチはクロアチアやほかの共和国に住むセルビア人は差別や迫害を受けていると訴え、クロアチアの分離独立を認めるならほかの共和国に住むセルビア人にもセルビアへの編入の権利を認めることを求めた。キャリントンはミロシェビッチの要求を受けて調停案の策定に取りかかる。セルビアはこのときロシアから支援を断られており、キャリントンの調停案を受け入れることが泥沼をさける唯一の方法だった。
キャリントンの調停案はすべての共和国が独立し、ゆるい形の連合を形成するというものだった。ミロシェビッチはクロアチアに住むセルビア人については妥協してもいいと考えていた。しかしほかの共和国は連邦に留まることがミロシェビッチにとっては絶対条件だった。特に150万人のセルビア人を抱えるボスニアを失えばひとつのセルビア人国家建設の夢は潰えてしまう。

 

調停案を拒否したミロシェビッチはクロアチアとの戦争に決着をつけようとする。頑強に抵抗を続けていたブコバルに連邦軍参謀パーニッチが派遣され、重火器を使用して攻め立てた。2ヶ月に渡る激戦の末、ツジマン大統領はブコバルを利用して国際社会の支援を得ようと考え、支援物資を送らずに惨状を国際世論に訴えた。結局、ブコバルは陥落。セルビアはクロアチアの3分の1を占領。1万5千人の死者と50万人の難民が出、町は廃虚と化した。そしてセルビアは次の標的をボスニアに定め、準備を始める。

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