大国主とは何者か

大国主とは何者か

大国主(おおくにぬし)は、『古事記』『日本書紀』に登場する日本神話の神である。国津神の代表的な神である(天津神の主宰神である天照大神に対して国津神の主宰神とされる)。出雲大社・大神神社の祭神で

『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』、『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』によると、スサノオの六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。 父は天之冬衣神、母は刺国若比売。

スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建ててほしいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう。

 

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大国主神のスサノオによる特訓のお話は、「古事記を学ぼう」第27話においてより具体的に解説しています。 また、大国主の国譲りに関しては表先生の「日本人を考える」でも別の視点から解説しています。

古代出雲王国

古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていました。

 

出雲神話「大国主の国づくりと葦原中国平定(古事記版)」

 

 

 

 

古事記には邪馬台国は載っていない

 

ヤマタノオロチは出雲の神話

大国主は古事記の中ではスサノヲの子孫となり、彼の上には兄弟がいた。まだ大国主と言う神名をもらう前は『オオナムヂ』という名前でした。

とあるとき、兄弟神である八十神(ヤソガミ)は因幡国のヤガミヒメに求婚するが、ヤガミ姫はオオナムヂと結婚するといいましたため、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことを決意する。オオナムヂを伯岐国の手前の山麓に連れて行き、『赤い猪がこの山にいる、我々が一斉に追い下ろすから、お前は待ち受けてそれを捕えよ』と命令する。従ったオオナムヂが待ち構えていると、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がり落とし、ぞれを捕らえようとしとオオナムヂは石の火に焼かれて死んでしまいます。。

オオナムヂの母親の刺国若比売(サシクニワカヒメ)は息子の死を悲しんで高天原に昇り、天地開闢の際に誕生した古き神の一人、神産巣日神(カミムスビ)に救いを求めた。カミムスビが使わしたキサガイヒメと蛤貝比売(ウムギヒメ)の治療によりオオナムヂは生き返ります。

オオナムヂの復活を知った八十神は、再度殺害を試みる。大木を切り倒して楔で割れ目を造り、その中にオオナムヂを入らせ、楔を引き抜いて撃ち殺してしまう。母親は泣きながらオオナムヂを探して大木を見つけ、すぐに木を裂いて取り出して生き返らせた。母親は『あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまう』といい、木国のオオヤビコのところへ行かせます。

オオヤビコの所へ行くと、必要に追ってきた八十神がオオナムヂを引き渡すようにと迫る。オオヤビコはオオナムヂを木の股を潜り抜けさせて逃がし、スサノヲのいる根の堅州国に向かうようにいいました。

いなばのしろうさぎ

出雲の国にだいこくさまという神様がいらっしゃいました。 その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。
兄弟の神様たちは因幡の国に八上比売(やかみひめ)という美しい姫がいるという噂を聞き、みんなで会いに行こうと決められました。 だいこくさまは兄弟達の家来のように大きな袋を背負わされ、一番後からついていくことになりました。
兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかったとき、体の皮を剥かれて泣いている一匹のうさぎを見つけました。

兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。
そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。
そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。

前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきただいこくさまが通りかかりました。

だいこくさまはそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。
そのうさぎは言いました。
わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニ(サ メ)がきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。
わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をもちかけました。

ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふりをしながら、向こうの岸まで渡っていきました。
しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなって、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。 そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。
それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よりもっと痛くなったのです。だいこくさまはそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(がま)の花を摘んできて、その上に寝転ぶといい。
そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。
そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。

そのあと、ずい分遅れてだいこくさまは因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、だいこくさまでした。

神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武が東征(先祖は西から)をしてヤマトに入るというはなしである。

この話から見えてくる主張は、現在の政権(ヤマト王朝)は血縁の関係があった王権から平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)という事か。つまり前政権を否定する立場ではないということだろう。

 

日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(おおものぬし)であり、これは大国主の和魂とされる。(幸魂奇魂:さきみたまくしみたま)一部に大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もあり。

古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という記述がある。

この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。
ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、
「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。」
とのりたまひき。

そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。

さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代にも出雲の祟が起きる。垂仁天皇の子であるホムチワケは言葉を発することができない。困り果てた天皇は、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社か?)を修繕させた、とある。

日本書紀では斉明天皇の時代にも、出雲のたたりがあったので、「神の宮」を修繕させたという記述がある。

現在に広く伝わる大国主の信仰は、菅原道真が天満宮に祀られるように「おそれ」によるものなのかもしれない。道真のように「無実の罪」であったり、非業の死を遂げた者が「たたる」と考えれていたからで、大国主の場合も平和的な「国譲り」ではなかった可能性もでてくる。

口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童向けの書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉があり、これは日本で最も高い建物の順番であり、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だという。奈良大仏殿が46メートルあるので、それより高かったというのである。

出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。

2000年に地下室を造成していた出雲大社で、径1mの柱を3本束ねた巨大な柱跡が発見された。まさに大国主が国譲りの条件とした大宮殿そのものではないか。都から遠い出雲に、大宮殿を長期間、維持しつづける負担を考えると、その「おそれ」は相当なものであると想像される。

それが「おそれ」でないとすれば、すでに日本全国に浸透していた大国主信仰による権威を逆に利用しようとしたのかもしれない。(あの大国主でさえヤマト王権に従ったのだと)当時の人々にとって出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの「大いなる記憶」が残っていたにちがいない。その「大いなる記憶」の大部分は失われてしまったようだが、今日にも確かに残っている。古代、ヤマト政権は地方の豪族などを「国造」としたが、出雲の国造には天孫の一族が派遣され、「国造(こくぞう)」となり、この家系は現代まで続き、出雲大社の宮司として「大国主」を祀り、出雲国造家として存在するのである。

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