アヘン戦争から日本の近代が始まった~第八代道光帝

アヘン戦争から日本の近代が始まった~第八代道光帝

アヘン戦争から日本の近代が始まった~第八代道光帝

 

 

当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。

中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となる。以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。




 

清では、この事態に至って、官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が出た。概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものである。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う黄爵滋らの意見が出て、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。




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