財政破綻問題の誤解

財政破綻問題の誤解

財政破綻問題の誤解

財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか

増税論にとっての最後に残された切り札のような役割を果たしてきた、政府債務の将来世代負担論。「政府債務はどこまで将来世代の負担なのか」。改めて以前とは異なったアプローチで説明を試みてみる。

 

絶対にTVでカットされる国債の真実

 

 

 

 

 

 

 

山本太郎  三橋貴明

 

増税派の切り札としての「政府債務=将来世代へのツケ」

 

保守派からリベラル派、安倍政権支持派から批判派にいたるまで、文字通り千差万別である。にもかかわらず、「現状は何よりもデフレからの完全脱却が優先されるべきであり、その実現を危うくする消費増税は凍結されるべきである」という基本的な政策的主張に関しては、各論者に異論はほとんど存在していない。

 

かつて昭和の政治家は戦後初めて継続的な特例公債の発行に至った際に「万死に値する」と述べたとされるが、その後先人達が苦労の末に達成した特例公債からの脱却はバブルとともに潰えた一時の夢であったかのようである。より見過ごせないことは、平成14 年(2002 年)から財政健全化に向けた出発点となる指標として掲げている国・地方合わせたプライマリーバランスの黒字化という目標すら、15 年を超える歳月を経てもいまだ達成されていないことである。

地球温暖化を含む環境問題について、所有権が存在せず、多数の主体がアクセス可能な資源が過剰に利用され枯渇するという「共有地の悲劇」が指摘されることがあるが、財政にもまた「共有地の悲劇」が当てはまる。現在の世代が「共有地」のように財政資源に安易に依存し、それを自分たちのために費消してしまえば、将来の世代はそのツケを負わされ、財政資源は枯渇してしまう。悲劇の主人公は将来の世代であり、現在の世代は将来の世代に責任を負っているのである。

先人達や、新たな時代そして更にその先の時代の子供達に、平成時代の財政運営をどのように申し開くことができるのであろうか。

政府債務による財政破綻論と将来世代負担論は、増税派の論者たちがそれを訴える論拠として、長きにわたって車の両輪ともいえるような役割を果たしてきた。ところが近年では、あからさまなおどろおどろしい財政破綻論は、一部に根強く残っているものの、ギリシャ・ショックが起きた2010年頃に比べれば明らかに数少なくなっている。その背景には、リーマン・ショック以降の世界大不況からの回復がまがりなりにも進んだことによって、各国の財政状況が着実に改善してきたという厳然たる事実がある。つまり、財政破綻論と現実との乖離がより拡がったことによって、ギリシャ・ショックの頃にはあったように見えたその「説得力」が失われたということである。

 

そうした中で、増税論にとっての最後に残された切り札のような役割を果たしてきたのが、政府債務の将来世代負担論である。この議論が増税論にとって好都合なのは、経済実態がどのように推移しようとも、それなりの大きさの政府債務が存在し続けている限り、この議論の「説得力」が失われることはないという点にある。たとえば、現実の財政破綻リスクは、市場に現れる国債金利やそのリスク・プレミアムなどによって容易に検証あるいは反証可能である。それに対して、政府債務の将来世代負担論には、そのような簡単な検証手段は存在しない。財政負担論が増税の論拠に利用され続けるのは、まさしくそのためである。

上の「建議」が典型的であるように、増税派はしばしば、政府債務それ自体を、「過去から現在に至る世代による将来世代からの収奪」であるかのように論じる。そこでは、放蕩の末に政府債務を将来世代に押し付けた平成という時代、あるいはその時代を生きた人々そのものが、意見表明ができない将来の人々から「財政資源」を奪い取った存在として、道徳的に断罪される。さらには、未だに増税を拒否し続けている現世代のすべてが、この「将来世代からの収奪」に加担する存在として、その罪過を指弾され続けるのである。

 

このように、増税に真剣に取り組もうとしない「我々」に対する「建議」の批判は手厳しい。それでは、今を生きるわれわれは本当に、将来の人々から「財政資源」を奪い取り続けていることに対して、常に負い目を感じながら生きていくしかないのであろうか。

その答えは明確に否である。というのは、ある政策的な立場の人々が、仮に「政府の財政赤字はすべて将来世代の負担となる」かのように述べているとすれば、それは彼らが、経済学的な政策命題ではなく、一つの明白に誤った政治的プロパガンダを表明しているにすぎないからである。

実際のところ、「財政資源の枯渇」という「建議」の表現がいったい何を意味するのかは、まったく明確ではない。しかしそれを読んだ人々は、おそらく確実に、政府債務=将来世代負担という「命題」がそこでの議論の前提となっているという印象を持つであろう。その意味では、この「建議」の内容は、経済学的知見に基づく政策提言というよりは、政治的プロパガンダにより近いのである。

それでは、この赤字財政の負担問題に関する「経済学的知見」とは何か。筆者は実は、本コラム「政府債務はどこまで将来世代の負担なのか」(2017年07月20日付)において、その課題に対する筆者なりの見方を既に明らかにしている。とはいえ、筆者自身がそれを「経済学的知見」を代表するものであるかのように喧伝するわけにもいかないであろう。というよりも、増税派の人々にとっては、逆にそれこそが「反増税派によるプロパガンダ」のように見えているはずである。

そこで今回は、前回とはまったく異なったアプローチを試みることにする。それは、経済学者たちがこれまでその問題をどう論じてきたかを確認してみるというやり方である。しかし、一口に経済学者といっても、その政策的な立場は千差万別である(そもそも「建議」の執筆者のほとんども経済学者である)。そこでここでは、より簡易な手法として、長きにわたって幅広く受け入れられてきた経済学の教科書で、この赤字財政の負担問題がどのように論じられていたのかを確認することを通じて、この問題に関する「経済学的知見」を確かめてみることにしよう。

 

ここでの具体的な吟味の対象は、『サムエルソン経済学』(都留重人訳、1977年、岩波書店)である。これは、Paul A. Samuelson, Economics, 10th edition の邦訳である。Samuelsonの Economicsは、1948年に初版が発刊されて以来、2009年に発刊された第19版(William D. Nordhausによる改訂版)に至るまで、各国各世代の経済学初学者に読み継がれてきた、経済学の最も代表的な教科書である。それは、41ヶ国語に翻訳され、合計で400万部以上を販売するなど、何十年にもわたりベストセラーとして経済学教科書の世界に君臨してきた(WikipediaのEconomics_(textbook)による)。

この本の邦訳にもいくつかの版があるが、筆者の手許にあるのは、1977年に出版された「原書第10版」の翻訳である。筆者がそれを所有しているのは、それが大学生の頃の教養課程の必修講義「経済学」のテキストに指定されていたからである。ちなみに、その講義は、日本の計量経済学の草分けの一人であった内田忠夫教授によるものであった。1970年代後半に大学に入学した筆者に近い世代では、この本によって初めて「近代経済学」を学んだという経済学部生も多かったはずである。

 

 

『サムエルソン経済学』は財政負担問題について何を言っているのか

 

この本が赤字財政の負担転嫁問題を論じているのは、第19章「財政政策とインフレーションを伴わぬ完全雇用」の第2節「公債と近代の財政政策」および付論「公債の負担–その虚偽と真実」である。それはまず、以下のように、「素人の接近方法」によってこの問題を扱うことに対する危うさの指摘から始まる(頁はすべて上記『サムエルソン経済学』(上)1977年版に基づく。以下これを『経済学』と略記する)。

 

公債に関連して生ずる負担を評価するさい、われわれは、小さな一商人の負債について真であることが何でも必然的に政府の負債についても真であるなどとあらかじめ決めてかかってしまう非科学的な方法は、これを慎重に避ける必要がある。問題をこのように予断してしまうことは、論理学上の合成の誤謬を犯すのにも等しい。公債の真の–そして現実には否定すべくもない–負債を分離して理解させてくれるものではなく、かえって問題点を混乱させるだけに終わるかもしれないのである。

近代経済学者は、公債の真の負担という点に関心を寄せ、素人の接近方法とは著しく異なるかたちでこの問題を診断するのである。(598-599頁)

 

『経済学』はこのように、政府の債務を個人や家計の債務と同様なものと考えてはならないことを指摘したのち、負担問題に関する結論を以下のように提示する。

ある世代がのちの世代に負担を転嫁できる主な方法は、その国の資本財のストックをそのときに使ってしまうか、または資本ストックに通常の投資付加分を加えることを怠るのかのいずれかである。(599頁)

この命題の意味は、章末の「要約」で、以下のようにより詳しく解説されている。

 

公債は、あたかも市民のひとりひとりが背中に岩を背負わなければならぬような形で国民に負担を負わせるものではない。われわれが現在資本形成削減の策を選び後世にそれだけ少ない資本財を残すことになるかぎり、われわれは後世の人たちに与えられた生産可能性に直接影響を及ぼすことになる。われわれがなんらかの一時的な消費目的のために外国から借金をし、その外債にたいし後世の人たちが利子や元金を支払わなければならぬような約束をするかぎり、われわれは後世に正味の負担をかけるわけで、その負担分は後世の人たちがそのときに生産できるもののなかからの控除を意味するだろう。われわれがのちの世代の手にいずれにせよわたるであろう資本ストックにはなんの変更も加えないで彼らに内国債を残す限り、国内ではさまざまの移転効果が生じうるわけで、そのときになって生産される財の中から社会のある集団が他の集団の犠牲において余計の分け前を受け取るということになる。(612-613頁)

 

この説明は、二つの命題に分けて考えることができる。その一つは、「公債は、国内で消化され、かつそれが一国の将来の生産=消費可能性に影響を与えるものではない場合、国内的な所得移転は生じさせるものの、将来世代の負担にはならない」である。

筆者の上掲2017年07月20日付コラムで指摘したように、このことを不十分ながら最初に述べたのは、初期ケインジアンを代表する経済学者の一人であったアバ・ラーナーである。そしてもう一つは、その対偶命題であり、「公債は、国外で消化される場合、あるいは資本ストックを減少させて一国の将来の生産=消費可能性を縮小させる場合には、将来世代の負担になる」である。

 

この最初の命題を論証するために、『経済学』第19章の付論では、「負担ゼロの極端な場合」という、以下のような設例が提示されている。

 

いまかりにすべての負債が過去の戦争のおかげで生じたとしよう。さて、その戦争は終わった。そこで、かりにすべての家族が(1)理想的な、そして何の偏りもない租税制度のもとで平等に負担を分け合うとし、(2)公債も均等に保有しているとし、(3)誰もが(あるいは個人として、または一体化した家族として)永久に生きるとする。だとすれば、外国に対する負債がない場合、われわれはそれこそ「皆で自分に借金している」状態にあるといってよい。

上の前提のもとでは、この種の債券はわれわれの背中にのせられた岩のようなものではないことがはっきりしている。債券の紙の重さほども負担とはならないだろう。もしもわれわれが全員一致でその債券を廃棄することに決めたとしても、そこには何の相違も生じないであろう。(616頁)

 

付論ではこれに引き続き、今度は逆に公債が資本ストックの減少を通じて将来世代に負担をもたらしているようなケースが例示され、「内国債である限り将来負担は生じない」という主張が一般的に真ではないことが説明されるのである。

 

なぜ「政府債務=背中の岩」説が信じられ続けるのか

 

『経済学』ではこのように、赤字財政の負担は確かに将来世代に転嫁されている可能性はあるものの、それは多くの人々が信じこまされているような「国民ひとりひとりが背負わなければならない岩」のようなものでは決してないことが明確に説明されている。そのことは、「将来世代全体の消費可能性はその所得によって決まるのであり、それぞれがそれぞれに対して持つ債権債務によるのではない」という自明な事実からも明らかである。

このような経済学的知見からすれば、その大部分が内国債によって賄われ続けてきた日本の財政赤字が本当に将来世代の負担となっているのかどうかについては、慎重な吟味が必要だったはずである。しかし、上記「建議」の中に、そのような視点を見出すことはできない。その述べるところはむしろ、上の「背中の岩」説にきわめて近い。

 

『経済学』が指摘するように、「政府債務=背中の岩」説は、経済学的には単なる謬論にすぎない。したがって、仮にそれが政策論議の中で公言されたとすれば、それはもっぱら政治的プロパガンダとしてのみ取り扱われるべきものである。しかし、滑稽なことに、日本の経済論壇においてはむしろ、そのような議論こそが「将来までをも見据えた真摯な政策論」として持ち上げられがちなのである。

『経済学』第19章では、人々が政府債務の「負担」をかくも過大視してしまう傾向に関して、歴史家マコーレイによる1世紀以上も前の論述を引用している。以下がそれである。

 

 

その負債がふえていく各段階ごとに、国民は相も変わらぬ苦悩と絶望の叫びをあげた。その負債がふえていく各段階ごとに、賢者たちは破産と破局が目前に来ていると本気になって主張した。しかも、負債はふえる一方で、にもかかわらず破産や破局の徴候はいっこうに見受けられなかった。…

災厄の予言者たちは二重の幻想を抱いていた。彼らはある個人が他の個人に負債を負っている場合と社会がみずからの一部にたいして負債を負っている場合とのあいだに完全な類似があると錯覚したのである。…彼らはさらに、実験科学のあらゆる面でたゆまない進歩が見られ、誰もが人生で前進の努力を不断に行うことの結果得られる効果を考慮に入れなかった。彼らは負債がふえるという点だけを見、他の事がらも同じく増加し成長したことを忘れたのである。(606頁)

 

『経済学』第19章では、この引用に続いて、アメリカの公債残高の国民総生産に対する比率が戦後から1970年代まで一貫して減少し続けてきたことが指摘され、それはもっぱらインフレーションと経済成長との相乗効果によるものであることが明らかにされる。そして実は、このことこそがまさに、日本の財政にとっての真の課題なのである。というのは、日本の財政状況が「悪化」したのは事実にしても、その原因は人々の放蕩ではなく、「デフレーションと低成長との相乗効果」以外ではあり得なかったからである。

 

野口旭

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