KGBスパイ網の実態

KGBスパイ網の実態

KGBスパイ網の実態

 

 

 

キム・フィルビー

 

第二次世界大戦中から英米両国はソ連の外交暗号を傍受解読しており、ヴァージニア州アーリントン・ホールの解読施設で整理されたそれらの情報は「ヴェノナ」の暗号名で知られていた。ソ連の担当者のミスにより解読が進むと、マンハッタン計画に潜り込んでいたソ連のスパイであるクラウス・フックスが逮捕された。

さらにのちにニューヨークにおけるスパイ網の統括者であったローゼンバーグ夫妻も逮捕され、罪を認めなかったため処刑された。戦時中の駐ワシントン英国大使館に暗号名「ホメロス」というスパイ(ドナルド・マクリーン)がいることが確実視されていた。さらにイギリス情報機関の「スタンリー」(フィルビー)なる大物スパイの存在も示唆された。間もなく駐米国のイギリス大使館二等書記官に任命されたバージェスもワシントンDCに赴任しフィルビーの自宅に同居した。常軌を逸した振る舞いを繰り返すバージェスによってアイリーンの精神はさらに不安定になった。

1951年にアメリカは「ヴェノナ」情報から、スパイ「ホメロス」がマクリーンである証拠を掴んだ。マクリーンは当時英国外務省のアメリカ局局長にまで出世していた。アメリカ側から連絡を受けたMI6本部はフィルビーにこの情報を折り返し伝えた。フィルビーはマクリーンに警告するため、バージェスを使いとしてロンドンへ送ることにした。バージェスは一日の間に3回のスピード違反を繰り返し、そのたびに外交特権を主張し、警官を侮辱した。激怒したアメリカ国務省は抗議を行い、イギリス外務省はバージェスに対してロンドンへの帰還を命じた。

帰国したバージェスはまずアンソニー・ブラントを経由してKGBの担当官に連絡した。5月25日にバージェスとマクリーンはフランスへ向かう遊覧船に乗り込み、さらにパリ、スイス、チェコスロバキアのプラハを経由してソ連に亡命した。

スパイの疑いをかけられたイギリス外務省の幹部2人が失踪したというニュースは英米の情報機関を震撼させた。FBIとMI5は、ワシントンにおいてバージェスと同居していたフィルビーが、二人に警告したのではないか、さらには彼自身もスパイなのではないかとの疑惑を持った。スペイン内戦時にジャーナリストとして働くソ連スパイがいたという証言、ヴォルコフ亡命事件における奇妙な失敗、ヴァリアブル作戦の情報漏洩など、フィルビーに不利な間接証拠は多かった。MI5はフィルビーを尋問したが、直接的証拠に欠けていたこと、MI6のニコラス・エリオットとCIAのアングルトンが無実を信じて擁護したことによって捜査は打ち切られた。フィルビーは辞表を提出し、退職金を受け取ってMI6を離れた。

収入を失ったフィルビーは田舎へ引きこもり、友人から紹介された仕事で食いつないだ。息子のパブリックスクールの授業料なども友人に頼っていた。フィルビーの行動を疑っていた妻のアイリーンとの仲は破綻しており、ついにはフィルビーは自宅の庭にテントを貼ってそこで寝泊まりするようになった。アイリーンがかかっていた精神科医は、フィルビーが彼女を自殺するよう圧力をかけていたと診断している。

1954年4月にKGBの大佐ウラジーミル・ペトロフ(英語版) がオーストラリアに亡命した。ペトロフは「1951年初めにロンドンで、マクリーンが秘密文書をKGBのエージェントに手渡すのを見た」と証言した。

バージェスとマクリーンはスパイ活動への関与を否定し、記者会見において「亡命の動機はマルクス主義への信奉のみだ」と表明した。ペトロフは外交官に偽装し世界各地の大使館に赴任しているKGB将校のリストと共に、バージェスとマクリーンが「第三の男」から警告を受けていたとの情報を提供した。MI5は引き続きフィルビーの監視を続けていた。

1955年9月18日の英国紙の報道によって、外交官の失踪事件は実は上流階級出身者からなるスパイの亡命であったことが明らかとなり大騒動となった。FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、イギリスがフィルビーを未だに逮捕していないことに激怒しており、フィルビーが「第三の男」であることを新聞に漏洩した。10月にフィルビーの自宅は新聞記者に取り囲まれた。労働党議員マーカス・リプトンが議会において不逮捕特権を利用してフィルビーの疑惑を取り上げ、これを新聞が間接的に報道することでついにフィルビーの名前が一般に顕になった。事なかれ主義をとるハロルド・マクミラン外相は、エリオットの台本通りに、フィルビーがマクリーン、バージェスに警告した証拠と彼が「第三の男」である証拠は共に一切ないことを言明した。

11月8日にフィルビーは母のアパートメンにおいて記者会見を行った。フィルビーは、学生時代に一時的に共産主義にかぶれていたが、それ以後は「相手が共産主義者だと知った上で共産主義者と話したことはない」と疑惑を否定し、記者たちはその弁明に納得した。リプトンは告発を正式に取り下げ謝罪した。ソ連の担当官は「息を呑む名演技であった」と賞賛している。

エリオットの斡旋で1956年からオブザーバー及びエコノミストの中東特派員としてレバノンのベイルートで働き始めた。同時にMI6にも情報収集員として復帰した。当時MI6の長官を務めていたのは以前MI5に所属しフィルビーを追求していたディック・ホワイトであったが、彼はこの人事に特に反対を示さなかった。ベイルートに着任しジャーナリストとMI6の仕事を兼務していたフィルビーの元に、安全を確認したKGBから連絡があった。フィルビーは再びソ連のスパイとしての活動を再開した。ニューヨーク・タイムズ紙の特派員の妻エレナと不倫し、イギリスに放置してきたアイリーンの死とエレナの離婚後、1959年にエレナと再婚した。1960年の父の死、1962年のジョージ・ブレイクの逮捕などで心労がかさみ、同年8月に飼っていた狐が事故で死んだときには周囲に心配されるほどのショックを見せた。

 

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ジョージ・ブレイク

1953年4月にブレイクはイギリスに帰国した。このとき既にソビエト諜報部により徴募されていたとみられている。彼は北朝鮮で国連軍の無差別爆撃を目の当たりにし、西側陣営に疑問を感じた。1955年、ブレイクは、西ベルリンの英軍警備司令部に配属され、MI6の東ドイツ国内のエージェント網を指揮することとなった。ソ連はブレイクの職務上の地位を重視し、彼の出世を有利にするために、自国の小物スパイを西側に売り渡すことすらした。

1956年、ブレイクは、電話会話盗聴用の地下トンネルの存在をソ連側に通報した(金工作)。彼は、自分が知っている東欧諸国内のイギリスのエージェント全員(約40人)の氏名、西側諸国軍の員数及び編成に関する情報をソ連国家保安委員会(KGB)に引き渡し、MI6指導者に関する詳細なファイルを作成した。これらの情報のおかげで、KGBは、長年に渡って、イギリス諜報部のドイツにおける活動を完全に封じることができた。ブレイクはのちに自身が暴露したエージェントは総計数百名にのぼると証言している。

1956年から1959年まで、外務省に復帰し、イギリス諜報部のために働いていた元ゲーレン機関のエージェント、ホルスト・エイトナーと関係を維持した。この期間、ブレイクとエイトナーは、互いにKGBのエージェントであることを知った。1960年、エイトナーが逮捕され、1961年2月、ブレイクの活動について話したが、これは信用されなかった。その後、CIAのエージェントだった駐東ベルリン・ポーランド軍の諜報員ミハル・ゴエニフスキーが亡命し、ブレイクがKGBのスパイであることが明るみに出た。

1961年3月、ブレイクは逮捕された。このニュースを知ったKGBは、東欧諸国内のイギリスのエージェント網を一撃で壊滅させた。この時、東ドイツだけで40人のエージェントが逮捕又は殺害された。

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