漢人

漢人

漢人

 

(かん、拼音Hàn)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 – 8年)と後漢(25年 – 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述されている。

中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。

前漢

紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が紀元前195年に没したのち、しばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握ったものの、紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代文帝および6代景帝は文景の治と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長した。また、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が呉楚七国の乱と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化した。その後即位した7代武帝はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった匈奴を破り、南越を併合し西域諸国を服属させて漢の全盛期を現出した。しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かった。10代宣帝は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、外戚の王莽が8年に簒奪を行って新王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びた。

後漢

漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招いた。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である更始帝によって打倒された。その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興した。この王朝のことを後漢と呼ぶ。後漢は2代明帝、3代章帝といった名君が続いて国力を回復させ、班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出したが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政を壟断するようになって国力は低下していった。そして184年に起こった黄巾の乱によって漢の統治力は大きく減退し、董卓の暴政とその董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で曹操の庇護の元細々と名目のみ存続する状態となった。やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、三国鼎立の様相を呈するようになった。220年に曹操が死去すると、後継者である曹丕は後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡した。

漢中郡

漢中郡(かんちゅう-ぐん)は、古代中国に存在した郡。後に漢中(かんちゅう)は、郡の役所が置かれた南鄭(なんてい、現在の陝西省漢中市)を中心とした一帯の名称となる。劉邦が興した漢王朝や、現在の「漢民族」や「漢字」などの名称の由来となる地名でもある。

孤立した盆地の漢中盆地になっていて、北は秦嶺山脈で西安など渭水盆地(関中)と、南は大巴山脈で重慶など四川盆地(巴蜀)と画されている。長江支流の漢水が東西に流れていて、東に下ると長江流域へ出、西へ上ると甘粛省の天水付近へ出る。

漢水やその支流の褒水・胥水などが流れる肥沃な盆地であり、漢水の中程にあるので「漢中」と名付けられたと伝えられている。

経済的には豊かな土地ではないものの、北は関中、南は巴蜀、東は漢水を下って長江流域に出られることから交通の要所であり、関中や巴蜀を支配する勢力にとっては漢中を押える事は軍事的に重要であった。

広義の蜀もしくは漢中は、狭義の蜀(現在の成都一帯)、巴(現在の重慶一帯)、漢中の3つを合わせた一帯の事をさす。

古くは梁州に属し、後には独立した国家を持っていたが戦国時代に秦に併合される。紀元前325年、漢中郡と命名されて南鄭県に郡治(郡の役所、及びその所在地)が設置された。一時楚に奪われるも紀元前312年に回復した。

秦が滅んだ後は、劉邦は本来封じられるべき関中では無く、この漢中の地に封じられた(ただし当時、漢中を関中の一部に含む説もあった)。この漢中の中で国士無双韓信を見出し、天下統一への足がかりとした。そのため劉邦は「漢王」(「漢中王」の略)を名乗り、帝位に就くと国号を漢とした。前漢代には益州に属し、西城、旬陽、南鄭、褒中、房陵、安陽、城固、沔陽、鍚、武陵、上庸、長利の12県を治めた。前漢末に10万1570戸、30万0614人があった

漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。

中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。

「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」という。

紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一となり、その後の漢の時代に文明が高度に発達した。漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成した。

林惠祥は著書『中国民族史』で漢民族は華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族であると論じている。黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は黄河の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系及び珠江を中心とした百越系と融合及び統合のプロセスを通して漢民族に生まれ変わったわけである。

漢族は黄河文明を生み出した華夏族と周辺の多民族との混淆で形成された民族概念である。ゆえに、異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。

漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱や三国鼎立の時代、さらには八王の乱・永嘉の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている者は500万人を切った。

4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され(→五胡十六国時代)、この結果、中原に居住していた民族の一部は南方に移動(→客家)した。最終的には北方民族は漢語をはじめとした漢風の諸習俗を受け入れた。隋唐時代の初期に多大な犠牲を払って完成した大運河は、物流のみならず人的・文化的にも中国大陸の南と北を強く結びつけ、中華地域の一体化に大きく貢献した。また、のちの遼や金、元や或いは後金やその後身の清などといった征服王朝期は、中華文化は北方の草原文化を取り込む機縁ともなった。

中国5000年の歴史は嘘だった。漢民族は遊牧民の子孫。

皇帝たちの中国 第1回

 

 

 

皇帝たちの中国 第2回

皇帝たちの中国 第3回

皇帝たちの中国 第4回

皇帝たちの中国 第5回

 

漢人カテゴリの最新記事