太平洋戦争後のアジア

太平洋戦争後のアジア

 

 

ノートン セキュリティ 月額89円/台より

 

 

 

20世紀初頭にフランス領インドシナ(現在のベトナム)で撮影されたひとつの映像があります。フランスの貴婦人がハトに餌を撒くようにベトナムの子どもたちに菓子を与えている様子です。この映像には、アジアに対する西欧の蔑視の視線が色濃くにじみ出ています。アジアにとっての20世紀は、そうした差別や支配との戦いの歴史でした。今回の「映像の世紀プレミアム」は、自由を求めて戦い続けたアジアの人々を描きます。

第60回アカデミー賞作品賞を受賞した映画「ラストエンペラー」、その主人公である清朝最後の皇帝・溥儀の最も古い映像は、1924年に北京の日本公使館で撮影されたものです。この年、中国国内の軍閥に紫禁城を追い出された溥儀は、欧米列強に保護を断られ、日本公使館に逃げ込みました。映像には、18歳の美しい妻・婉容の姿も映っています。溥儀の自伝には、この時の暮らしが書かれています。

「日本公使館に住むようになってから、私は何度も深夜に自転車で紫禁城のほとりまで行った。城壁の輪郭を見つめながら、離れて間もない宮殿を思い、思わず胸が熱くなった。私の目には涙があふれ、心の中で固く誓った。いつの日か必ず、君主として、ここにもう一度戻ってくるのだと。」(溥儀著『わが半生』より)

日本は満州国を建国すると、その皇帝の座に溥儀を就けました。溥儀はこの新国家に満州民族再興の夢を抱きましたが、実態は日本の傀儡に過ぎませんでした。戦後の東京裁判の映像には、証人席に座る溥儀の姿があります。溥儀は自分も日本の被害者であると主張しました。しかし、戦犯として裁かれるのは免れたものの収容所に入れられ、中国共産党による再教育を受けます。「皇帝陛下」と呼ばれていた男は、「981」という囚人番号で呼ばれるようになりました。9年後、溥儀は釈放されます。そして、北京の植物園で庭師となって61歳で流転の生涯を終えました。

番組ではもう一人、アジアのスーパースターを取り上げています。映画俳優のブルース・リーです。アメリカで生まれ香港で育ったブルース・リーは、18歳で単身アメリカに渡ります。そして、白人中心のハリウッドの中で人種の壁と戦いながら、1973年にやっと主役の座を射止めました。それが、世界中で大ヒットする『燃えよドラゴン』です。しかし、ブルース・リーはその成功を見ることなく、映画公開直前に脳の病で亡くなりました。死の2年前に撮影された、ブルース・リーの貴重なインタビューが残されています。長らく行方不明だったことから、「ロスト・インタビュー」と呼ばれている映像です。その最後で「あなたは中国人? それともアメリカ人?」と質問されたブルース・リーはこう答えています。

「僕はこう思いたい。自分は人間だ。偉そうに語るつもりはないが、天の下、人類はひとつの家族だ。ただ、人はそれぞれ違うだけでね。」

他にも、大国の支配や差別と戦ったアジアの英雄たちがたくさん登場します。インド独立のためにガンジーと共に闘いながら、非暴力闘争と袂を分かってヒトラーと手を結んだチャンドラ・ボース。ベトコンを率いてアメリカ軍を破り、「赤いナポレオン」と呼ばれたベトナムのボー・グエン・ザップ将軍。石油によって欧米の大国を手玉にとった、サウジアラビア建国の父イブン・サウード国王。世界各国のアーカイブから発掘した貴重な映像で、20世紀のアジアの激動を体感してみてください。

 

 

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