朴栄喆「五十年の回顧」

朴栄喆「五十年の回顧」

朴栄喆(ぼくえいきつ) 「五十年の回顧」より

朴栄喆は、併合前の明治35年に日本の陸軍士官学校に入校し、帝国陸軍少佐を経て日本統治時代に道知事にまでなった人です。彼はその著「五十年の回顧」(昭和4年)の中で、日韓併合による韓国滅亡を次のように教訓化しています。

『公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤(博文)公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究竟するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。詮ずるところ、その責任は二千万同胞にあるのである。思うに韓国自体が独立の要素を欠き、独力独行することが出来なかったためであって、古今問わず韓国国民全体が無気無力為す事なかりしの致すところであって、まことに自ら招ける禍であると云わねばならぬ。日露戦後、日本は前例に鑑み(日清戦争後の処理を指す)韓国の保護啓発に努力したるも韓国の上下は少しも日本の誠意を理解せず陰謀を策し、詭謀を企て陰に陽に敵対行動を取ったので日本はついに止むを得ず最後の手段として日韓併合を断行するに至った。・・・今日あるは自業自得であると云わねばならぬ』」

 

台湾は日清戦争の結果、国際条約である下関条約によって日本に「割譲」されたものです。交換条約に基づく樺太や千島列島と似ています。

しかし朝鮮半島は、日鮮双方の合意に基づいて「合邦」さたものなのです。

当事国間の合意以外に、列強の合意もありました。合法的「割譲」によって領有された地域と、合意に基づく「合邦」という違いがあったからこそ、統治後の処遇や境遇もおのずと異なってきます。

 

中国がチベットと十七ヶ条の条約を結んでおきながら、「農奴解放」を口実にラサに進駐したのとは全然わけが違います。

 

朝鮮では、朝鮮の皇族、貴族は、日本の華族と同等の処遇をされました。日本の朝鮮統治下で、朝鮮人道知事も総数42人おり、日韓併合後、侯爵が7人、伯爵4人、子爵20人、男爵36人、総数69人の貴族が認められました。しかし、台湾では1人の男爵すら出ていません。もちろん知事なども1人もいませんでした。

 

軍事力が国家の命運を左右した列強時代は、当然軍人教育が重視されました。朝鮮人は、1896年にはすでに、11人もの士官が日本陸軍士官学校に入り、以後、終戦まで、朝鮮人は日本人と同じように軍事教育を受け、中将にまでなった人物も存在した。

 

イギリスの連合王国で例えれば、日本と朝鮮はイングランドとスコットランドのような関係であり、台湾はアイルランドのようなものでしょう。同じ日本の統治地といっても、このような統治の違いを分析すれば、「強者が弱者を無理矢理支配する侵略」というような単純な状況ではないことがハッキリと分かります。

 

日本が朝鮮を統治した三十六年間を、今日の韓国では「日帝三十六年」と呼び慣わし、戦後の殆どの学者たちは、台湾、満州を含めて朝鮮半島を日本帝国の植民地の一つとして「植民地研究」のテーマとしています。また一般でも朝鮮半島を植民地としてみることが常識のようになっています。
しかし戦前は、朝鮮を植民地としてみる見方はほとんどなかったようで、特に明治の人は耳にしたことがないと言っている人が多い。朝鮮を「併合国家」または「合邦国家」とし、植民地ではないとする考え方は、論拠がないことではありません。当時掲げられていた「内鮮一体」「一視同仁」というスローガンは正に政策であり、それこそ本音だったと言う人がほとんどです。
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連合国家、合邦国家は、古代から中世にいたるまであったもので、近代国家の中でも少なくありません。先に述べたイングランド、スコットランド、ウェールズの大英連合王国はもちろん、かつてのチェコスロバキアやオーストリア・ハンガリー帝国もそうでした。六十年代にはエジブトとシリア、イラクとヨルダンが、一時期連合国家を形成していました。」

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「(韓国併合時、)斉藤総督時代には、文化政治という方針を打ち出し、それまでの強権的な政治を改め、朝鮮人との融和に努めた。着任当初はまず治安の回復を重視し、警察官の数を増やし、1万6900人へと増員した。韓国の歴史家は、この警察官の増員という一面を見て弾圧が強化されたという向きもあるが、治安は大幅に改善され、21年には時局犯罪者は当初の1/10にも減少している。
次に着手したのは、朝鮮人の待遇問題である。朝鮮人官僚の給料は併合当時、在来ベースとしたため、日本人と比較すると悪かった。そのため同一資格では同一の給料を付与することにし、改善を行った。ただし、日本人は外地手当てが五割ほど加棒があったため、所得格差は大きいが優秀な日本人をつれて来るには、勤務条件の悪い外地につれて来るにはやむえない処置であった。
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さらに、公立の普通学校の校長に1919年に朝鮮人を任用したのを手始めに、その数を増やしていった。このほか、宣教師や欧米資産家の働きかけもあり、李朝時代から続いていたむち打ち刑も廃止された。この時期に、日本の大阪大学先駆けて、ソウル大学のもととなった朝鮮の京城帝国大学が創立され、ここから輩出されたエリート朝鮮人が朝鮮統治に次々と活躍することになる。
例えば13の道では知事が四割の朝鮮人が占め、県庁の幹部である日本人に指示を出す構図も見られた。一例を言えば江原道の知事は歴代朝鮮人が独占していたのだ。また、地方行政の主役である「面長」「邑長」「郡守」の多くはほとんどが朝鮮人であり、県会議員の内訳は朝鮮人が四分の三であり、日本人は四分の一である。多数決になれば、日本人の意見は通ることはなかった。
また、朝鮮総督府内の高級官僚では、学務局長になった朝鮮人も存在する。現在の韓国では仮に総督を大統領だとすると大臣のポストにあたる。また、彼の施策の中で特筆されるものは朝鮮語の普及であった。日本人職員に朝鮮語を奨励するため、日本人学習へ朝鮮語奨励金を支出している。
もちろん、朝鮮人対しても朝鮮語教育に対しても普及促進を図った。ちなみに小学校の朝鮮語教育は選択であるが、普通学校では必須である。 これを見ても韓国が朝鮮語を抹殺しようとしたとされる国史教育は現実にそぐわないということは合わせて伝えておきたい。 この時期、日本からの企業投資が活発に行われた。小野田セメントなどが進出したほか、7000キロワットの水力発電所も官製、安価な水力発電主導による朝鮮の産業革命が遅れながらもスタートしたのである。
 斉藤総督は、歴代総督の中でも白眉をなす存在であった。公立学校を増大させ、内地並みの待遇を行おうと努力していた。  彼は着任早々、一週間にわたり、朝鮮人、有力者、知識人、外国人宣教師、ソウルに招き食事を交えた意見交換会を行った。
また、意見を持つ朝鮮人が来訪すれば、身分を問わず招きいれた。知識人が手紙で意見を送ればその意見に整合性があれば、丁寧に返事を書いた。また、宗教政策も私立学校では聖書の講義も認めた。この結果、二年もたたずに宣教師の総督府に対する態度は全く変わり外国からの悪評は、ほとんどなくなったといわれている。 彼の治世は10年、その足跡は13道、かなりの僻地まで脚を運んだ。困ったことがあれば、斉藤総督自身、直接、陳情を聞き、実現したものもあった。彼のこの姿勢は、多くの朝鮮人の心を和ませ、3.1事件以後、大きな騒乱事件は無くなったのである。彼の統治は、文化政治といわれているが、その最大の貢献は民意に吸収につとめ、外国人宣教師と和解と融和を図り、宣教師の手で日本の統治のPRをさせたことであろう
(引用・子爵斉藤実伝より)」

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