朝日新聞が偏向する理由【元記者が語る】

朝日新聞が偏向する理由【元記者が語る】

朝日新聞が偏向する理由【元記者が語る】

 

時事評論家(元朝日新聞記者)本郷美則氏が語る、朝日が左翼で中国寄り、北朝鮮寄りな理由。 近著「首都壊滅ーー東京が核攻撃された日」について語る中で。 (朝日新聞の話は3分15秒ごろから) チャンネル桜「報道ワイド日本」2008年2月4日放送分より抜粋

 

元朝日常務(現社長の先輩)が朝日の実態を暴露&批判!#1

元朝日常務(現社長の先輩)が朝日の実態を暴露&批判!#2

元朝日常務(現社長の先輩)が朝日の実態を暴露&批判!#3

元朝日常務(現社長の先輩)が朝日の実態を暴露&批判!#4



『朝日はリベラル新聞人「緒方竹虎」へ回帰せよ「正論」05/05』
元朝日新聞社常務 青山昌史

朝日が緒方のリベラル路線から左翼路線に一部カーブをきるのは、歴史的には昭和八年暮れに初会合した近衛文麿の昭和研究会あたりから。
スパイ・ゾルゲに「北守南進」の情報を流したのは同会にいた朝日元記者、尾崎秀実だった。
>その尾崎に情報を流したのが、当時の朝日政経部長田中慎次郎。田中は軍機保護法違反で起訴され、当時の予審に回される

田中は戦後、復社し、昭和三十四年には、のちに全共闘の機関誌的とも言われる「朝日ジャ一ナル」を発行する。

終戦直後、森恭三は政経部次長の時「国民と共に立たん」との宣言を執筆し明らかに階級闘争史観を述べている。

この二人を論説面での教祖的存在とすれば、広岡知男元社長は、この上に君臨し、権力で支えた大ボスだった。広岡は社長を五期十年、会長を二期四年、社長前の専務なども含めると在社の半分近くを役員で過ごし、一時代を画する朝日のドンであった。

『朝日はなぜかくも反日・左翼の新聞になったのか』元朝日新聞社研修所長 本郷美則
お家騒動で、広岡知男が政権を奪い、体制を左翼・組合人脈・経済部出身者を軸に固めるようになってから、様相は一変した。
朝日新聞社は、明確に一九六四年の広岡政権樹立以来、新聞社というより、社会主義革命を志す活動家を主流とするプロパガンディストの政治集団と化して、今日まで、その面妖な人脈の支配を連綿と続けているのだ。



朝日新聞の歴史を調べてみると、1879年(明治12年)1月8日村山龍平・上野理一によって大阪に於いて創業されています。

現在も社主は村山美知子(3代目)と上野尚一(4代目)の二人で、主要な株主は村山美知子(36.46%)上野尚一(12.82%)朝日新聞社従業員持株会(11.07%)村山富美子(8.57%)となっています。(2006年9月30日現在)

創業者の村山龍平は氏族の出で衆議院議員、貴族院議員を務め、もう1人の創業者である上野理一は商家の出ですが、地方官吏を歴任した後に朝日新聞の経営を任されています。創業後3年の1882年には政府と三井銀行から経営資金援助を受け始めており、創刊当初は左翼に偏った新聞ではなかったようです。日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対しました。

しかしその後、徐々に反政府的な主張が見られるようになります。1918年には大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し白虹事件(はっこうじけん)を起します。第一次世界大戦後は軍縮支持、シベリア出兵反対、普通選挙実施を主張していました。

満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、特に太平洋戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行いますが、1942年には先に出たソ連のスパイに情報を流すゾルゲ事件を引き起こしています。

朝日新聞は、ロシア文学に傾倒した二葉亭四迷、夏目漱石、社会主義に傾倒した石川啄木といった文人を入社させており、保守的な経営陣と革新的な現場記者という対立構造はすでに戦前から出来上がっていたと思われます。

そして、この対立が頂点に達し、経営陣と労働組合を中心とした現場記者がぶつかり合い、経営陣が敗北したのが1964年におきた朝日新聞の内紛、村山事件でしょう。創業社主一族が、経営者の首を挿げ替えようとして、逆に退陣に追い込まれた事件です。

この事件以降、朝日新聞は「左翼・組合人脈・経済部出身者」が主導権を握り、「社会主義革命を志す活動家を主流とするプロパガンディストの政治集団と化して」左翼偏向報道へ大きく舵を切っていきます。

 

 

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