天皇

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歴代天皇125今上天皇(平成の天皇)

昭和天皇(第124代天皇)の第一皇子。母は香淳皇后。大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。 日本国憲法施行後初めて即位した天皇であり、また京都ではなく東京で即位の礼を執り行った初めての天皇である。 1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。 称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)は、父・昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「大教宣布」より「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宜明治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。 お印の「榮」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する。国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋作詞・中山晋平作曲で奉祝歌「皇太子さまお生まれなつた」まで作られた 1936年(昭和11年)3月29日、 […]

歴代天皇124 昭和天皇

歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。 大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」する立憲君主制における天皇として日本の降伏において連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。 またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。 1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と皇太子妃・節子(後に立后して貞明皇后)の第一男子(後に、第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生。 1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めに […]

歴代天皇 122 明治天皇

父は孝明天皇,母は中山慶子。1860年立太子,孝明天皇の急死により1867年1月践祚(せんそ)。同年12月王政復古が宣せられ,天皇親政の名の下に明治政府が形成された。 孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師・中山邸にて出生。出生8日目の9月29日(11月10日)に父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名。中山邸で暮らし、安政3年9月1日(1856年9月29日)に宮中に転居。 予定より2年遅れて万延元年閏3月16日(1860年5月6日)に、深曽木の儀を行う。7月10日(8月26日)、儲君と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日(11月10日)、親王宣下を受け睦仁の諱名を賜る。 元治元年7月19日(1864年8月20日)、朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒する。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能 […]

歴代天皇 121孝明天皇

仁孝天皇の第4皇子。母は藤原雅子(新待賢門院)。父の死により皇位をつぐ。攘夷(じょうい)鎖国をのぞみ,幕府が勅許をまたずアメリカなどと修好通商条約に調印したため,一時譲位を表明。その後公武合体をうけいれ,妹の和宮を将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁させた。慶応2年12月25日死去。36歳。 1831年7月22日(天保2年6月14日)、仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。傳役(養育係)は近衛忠煕が就き、1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君。1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王となった。 1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子となり、1843年(天保14年)には侍講に中沼了三を迎えた。1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚した。 1846年10月19日(弘化3年8月29日)、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌・1847年4月23日(弘化4年3月9日)、学習所(学習院)の開講式が行われた。 6月8日 […]

歴代天皇107 後陽成天皇

誠仁親王の第1王子,母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。初め和仁,慶長3(1598)年12月周仁と改名。天正14(1586)年9月17日立親王。同7月父親王が皇位を継承する前に亡くなっていたため,11月7日正親町天皇の譲位を受けて践祚,同25日即位。 慶長16年3月27日政仁親王へ譲位。 その在位期間は豊臣秀吉による天下統一,徳川家康による江戸幕府創設といった時期であり,また戦国期を辛くも生き延びた天皇を始めとする朝廷社会の復権の時期であった。 しかし,天正14年12月19日太政大臣に任じられた秀吉は,前関白近衛前久の娘前子を猶子とし,新天皇の女御として入内させ,外戚の地位についた。 同16年4月14日の聚楽第行幸は,その行列の華やかさとは裏腹に,秀吉の書いたシナリオ通りに,豊臣政権の実質的な成立を天下に知らせる一面すら持っていた。 一方,慶長14年6月の宮女密通事件に対する幕府の措置への不満から,天皇は譲位をほのめかしたものの,家康により延期させられた。翌15年譲位を巡る確執は,近衛信尹の日記『三藐院記』に「たゝなきになき申候」とあるように,結果的に家康に屈伏せしめられた。 朝廷の […]

歴代天皇102 後花園天皇

本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代、658 年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。 応永26年(1419年)6月18日、貞成親王の第一王子として生まれた。 応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。 正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。   同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の […]

歴代天皇100 後小松天皇

後小松天皇は、北朝の後円融天皇の第一皇子として誕生。16歳の時に南朝の後亀山天皇から神器を受け取って、正式に第100代天皇となりました。 南北朝統一にあたって、足利義満が後亀山天皇にいくつか条件を出していました。そのなかに、「三種の神器の引き渡しは、後亀山から後小松への譲位の儀をもって行う」とありました。これは、神器を持っていた南朝こそ正統な朝廷であることを示していました。 しかし、実際には後亀山が神器を後小松に返したことになっており、南朝自体を否定する形となります。 また、確約されていたはずの「持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互に天皇となる」という約束も、後小松天皇が息子の称光天皇に譲位したことで反故にされてしまいます。 こうして、足利義満の策略により、しばらく南朝は歴史から抹消されてしまいます。 南北朝統一の翌年。足利義満と対立関係にあった後円融が亡くなります。すると義満は野心をむき出しに!!将軍職を子どもに譲り、自らは太政大臣になって上皇のごとく振る舞うようになります。義満のもとでは、後小松天皇は操り人形でしかなく、政治の実権はほとんどありませんでした。 1396年。義満は […]

歴代天皇99・後亀山天皇

南北朝時代の南朝方最後の天皇。名は煕成 (ひろなり) 。後村上天皇の皇子。母は嘉喜門院藤原勝子。 弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は栄山寺(奈良県五條市)であったらしい。この皇位交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり、最終的に和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。 在位の9年間はちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。 元中9年/明徳3年(1392年)和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。 10月には義満から吉田兼煕を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。 同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日 […]

歴代天皇96後醍醐天皇

南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日(文保2年2月26日) – 1339年9月18日(延元4年/暦応2年8月15日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。 徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。 後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1 […]

歴代天皇90 亀山天皇

後嵯峨天皇の第七皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。 正嘉2年(1258年)8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、翌正元元年(1259年)兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚。即位には父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向があったとされる。 文永2年(1265年)には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。 院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉ったことは史実だが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。 文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿 […]

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