科挙制度の問題点とヨーロッパの制度

科挙制度の問題点とヨーロッパの制度

中国の科挙は学科試験という概念を導入しましたが、その後は競争が激化してほとんど受からなくなってしまいました。 試験は3年に1度の中で、10回以上落ち続けている人もいました。 そんな人たちは、家がお金持ちだから、それが出来たのです。

 そもそも、中国の隋に始まり、唐で発展し、宋で変質しながら、清まで継承された官吏登用制度。

 

中国では官吏選任は選挙といわれ、漢の武帝の時の郷挙里選で最初の整備が行われた。その後、三国時代の魏で九品中正制が始まり、有効な人材登用には至らなかった。
そこで隋の文帝は九品中正制を廃止して、学科試験による官吏登用制度を始めた。その制度が唐の時代に「科目による選挙」という意味で「科挙」と言われるようになった。しかし、実質的には隋の文帝(楊堅)に始まるとしてよい。隋の文帝は、門閥貴族による高級官僚独占の弊害を改めるため九品中正制に代えて官吏登用制度を新たに整備した。実質的には唐で整備され、その試験内容として儒学の経典が課せられたために儒学・儒教は官吏の必須の教学となったため、知識層に深く浸透し、また詩文の能力も重視されたことから、漢詩の創作が競われることとなり、唐詩の最盛期をもたらした。
その後、科挙制度はさらに整備され、宋では皇帝専制政治を支える官僚の登用法として完成した。その後の王朝で継承され、元では一時停止されたが明でも大規模に行われ、清朝末期の1905年に廃止されるまで続いた。科挙制はヨーロッパにも知られるようになると、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは、科挙のシステムを高く評価している。
なお、科挙の受験資格は男性だけであったが、清末の太平天国では、1853年に一度だけ女性のための科挙(女科)が実施された。これはまったく例外的。

家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新であった。しかし隋から唐までの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙に合格して官僚になることで地位・名声・権力を獲得し、それを元にして大きな富を得ていた。

隋の科挙制

魏に始まる九品中正制は、地方の豪族層を貴族階級として固定化させ、門閥貴族を生み出した。中国を統一した隋の文帝は、世襲的な貴族の優先権を一切認めず、中央と地方の官僚を門閥にとらわれずに人材を登用することを目指し、試験による官吏登用制度を採用した。官吏登用は一般に「推挙された者を選抜する」意味で「選挙」と云われていたが、ここに初めて試験を導入したのが隋であった。「科挙」とは科目による選挙を略した言葉で、唐代に使われるようになるが、その始まりは隋の文帝の587年としてよい。ただ隋代では毎年の合格者は数名程度にすぎなかった。制度として完成するのは唐代を経て10世紀の宋代であり、元代に一時中止された時期を除き、各王朝で継承され、清朝の1904年を最後として、1905年に廃止が決定された。
<宮崎市定『科挙』1963 中公新書・中公文庫>

唐の科挙制

唐は隋の科挙制度を継承したが、当初はそれほど重視されたわけではなく、また官僚もすべてが科挙で選ばれたわけではなかった。貴族(魏晋南北朝時代以来の門閥貴族)には蔭位の制があって、科挙を受けなくとも父親の官位で子どもが一定の高位につくことができ、そのような官僚を任子と言われていた。始めは任子が優勢で科挙で選ばれた進士はそれを補う形だった。このように唐の前半までは貴族(門閥貴族)社会であったといえる。唐では初期に秀才科は廃止され、代わりに進士科が重んじられた。中唐では、進士科は受験者千人に対し、合格者が1~2%、その次に重んじられた明経科では、受験者二千人に対し、合格率10~20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

この科挙が有益な人材を発掘する上では不十分であることは、中国でも古くから指摘されていた。

四書五経の丸暗記が、現実の政治にどれほど役に立つのかといった批判である。しかし、それならどうすればいいのかという段になると、他に適当な方法が見つからない。
そこで全国に学校を設立し、十分に教育した上で生徒の中から優秀な者を抜擢しようという動きが何度か実行に移された。しかし、あくまでも科挙のための学校であるから、学校においても試験だけの連続という制度へと劣化してしまった。そのような改革論議を受け検討すべき立場にいたのは、科挙によって選ばれたエリート官僚である。彼らは既成の枠組みを見直すこともできず、ひたすら現状維持を続けたのである。
しかし、産業革命を経た欧米列強からの圧力が強くなると、さすがに新しい知識・技術の習得が必要となり、新しい教育を行う機関が設立される。一方で科挙制度は残ったままであったため、ほとんどの人間が科挙による登用を目指す。そのため一向に新教育は発展しなかった。つまり科挙制度が新教育の発展を阻害していたのである。こうして産業革命に対応した新教育制度発展の必要から、1904年を最後にして科挙は廃止されることになる。結局のところ科挙は、設立時には「既得権益を持った旧貴族階級を追い出すため」、王朝交代期には「(武力による王朝交代に伴って)官僚機構を確立するため」に作られ存続した。そのような時期には、”新しい官僚”が必要となり、また既得権益を持ってない者から選ばなければならないからである。しかし、ある王朝による官僚システムが安定期に入ると、科挙の意義は薄れ(∵システムが完成してしまうと、優秀な人間は不要となる)「(科挙を維持するような)官僚を登用するための科挙」へと堕落していった。後に残ったのは、大量の官僚希望者と、大量の不合格者である。中国各王朝末期の反乱軍は、このような不合格者(=朝廷への反感を募らせた知識階級)が束ねたものも多い。
これが意味するところは、権力闘争上の意義は科挙に存在しても、新しい時代(外圧)に対応する上で必要な能力(創造性など)を持つ人材は発掘できないということである。加えて、科挙のような「国家による試験制度」は、全国民的な意識がその制度の下に規定されてしまうという問題もある。

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