なぜ、ユダヤ人は迫害され、差別され続けてきたのか?

なぜ、ユダヤ人は迫害され、差別され続けてきたのか?

なぜ、ユダヤ人は迫害され、差別され続けてきたのか?

その理由として、キリスト教側がユダヤ人を「イエスをメシア(救世主)と認めずに殺した、永遠に呪われた民族」として断罪したことが挙げられよう。

例えば、“キリスト教会史の父”と言われる4世紀のエウセビオスは、ユダヤ人に「主イエスを殺した者たち」「キリスト殺しども」というレッテルを貼り、悪しきイメージ作りに狂奔した。また、同世紀のアウグスティヌスもユダヤ人を「悪霊に憑依された破壊者」と断じ、そのため「神により離散の刑を科せられている」と言ってはばからなかったのである。

 

このようにして、キリスト教社会では反ユダヤ主義の正当性が“神学的”に承認されるようになった。極言すれば、キリスト教帰依者でないユダヤ人は、信仰の敵である以上、「人間の皮をかぶった悪魔的存在」と見なされ、そうした悪魔の類いであればこそ、煮て食おうが焼いて食おうが構わないといった風潮をはびこらせるに至ったのである。

 

「ゲットー」は16世紀にベネチアに初めて設置されたもので、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制すると、またたくまに世界各地へ広まり、その後、約300年間も存続した。
各地の「ゲットー」には2つ以上の門を設けることが禁止され、高い塀で囲まれ、門の扉は外から閉ざされたうえ、施錠され、鍵はキリスト教徒門衛が保管していた。

ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまったのである。

 

カトリックに反発してプロテスタントを起こした16世紀の人、ルターも、ユダヤ人迫害にかけては筋金入りであった。ルターは当初、ユダヤ人に寛容であったが、晩年になると、ユダヤ人がキリスト教に帰依しないことに業を煮やし、猛烈な反ユダヤ主義者に変質した。

その反動ぶりは凄まじいもので、例えば「ユダヤ人の旅行と金融業の禁止」「ラビによる教育の禁止」「タルムードの没収」「ユダヤ人の追放」「ユダヤ人の強制収容」「ユダヤ人の強制労働」などを主張。そこにヒトラーの先駆的な影を見る者は多い。

 

だが、不思議なことに、ユダヤ人は「イエス殺しの民族」という、キリスト教サイドの単純な宗教的偏見だけで迫害される民族ではないようだ。なぜならば、キリスト教が確立する以前の時代から、ユダヤ迫害事件が起きているからだ。

例えば、紀元前167年、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世・エピファネスが、ユダ州とサマリア州の全面的なギリシア化(ヘレニズム化)を宣言し、エルサレムを完全制圧すると、彼は「ソロモン第二神殿」にゼウスの偶像を置き、ユダヤ人にゼウス崇拝を強要。そして反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧。その結果、8万人のユダヤ人が虐殺され、4万人が捕囚となり、さらに4万人の女・子供が奴隷として売り払われてしまったのである。

 

古代ローマ帝国時代のユダヤ人

 

イエス誕生前の古代ローマ帝国において、ユダヤ人の存在は無視できないものになっていたのだが、古代の歴史家たちはこの特異な“ユダヤ集団”に注目し、それについて意見を述べていた。

例えば、ギリシアの歴史家であり地理学者であったストラボン(BC63~AD21)は、以下のような記述を残している。

「キレネ(アフリカ北部リビア東部にあった地中海に臨む古代都市)には4つの階級がある。1番目は市民、2番目は農民、3番目は外国人居住者、そして4番目がユダヤ人である。このユダヤ民族は、既にあらゆる都市に入り込んでいる。そして、およそ人の住める世界でユダヤ人を受け入れていない場所、その力を感じさせない所を見つけることは容易ではない。」

 

ローマの歴史家ディオドロス(BC1世紀生まれ/著書『世界史』)は、以下のような記述を残している。

「あらゆる民族の中でただユダヤ人のみは、他のどのような民族ともうまくやっていくことをことごとく拒絶し、他の全ての人間を敵とみなしている」

 

ローマの偉大な歴史家タキトゥス(AD55~120年)は、以下のような記述を残している。

「ユダヤ人の習慣は卑しく忌まわしく、ユダヤ人がその習慣に固執するのは、彼らが腐敗堕落しているからである。ユダヤ人はユダヤ同士では極端に忠実であり、いつでも同情を示す用意ができているが、異民族に対しては、憎悪と敵意しか感じない。民族として激しやすい。ユダヤ人同士の間では、合法的なものは何もない。」

 

この件について現代の歴史家カシュタインは著書『ユダヤ人の歴史』の中で以下のように述べている。

「ユダヤ人にとって、ローマは憎むべき一切の事柄の精髄を成しており、それゆえ地上から一掃されるべきものと考えた。ユダヤ人は、ローマとその発明品である武力と法律を人間にはあるまじき憎悪をもって憎んだ。事実、ローマにはユダヤのような法律があった。けれども、まさに似ているところにこそ違いがあった。なぜなら、ローマの法律は、単に武力の実際的な応用に過ぎなかったからである。」

 

クレジット審査なし!法人ETCカード

 

 

テキサス大学のハリー・J・レオンは著書『古代ローマのユダヤ人』の中で、ローマ帝国におけるユダヤ人の力について述べている。ちなみにこの本はユダヤ出版協会から出ている。

「……ローマ市内のユダヤ人は既にローマ政治における侮りがたい要素となった。政治的野心のあるユリウス・カエサルはユダヤの力を認識した。『人民党』すなわち自由民主党もしくは民衆党のユダヤ人は、カエサルを支持した。ユダヤから受けた支援に対する見返りとして、カエサルは目にあまるほどユダヤびいきを示した。そして運よくヨセフスによって記録されたユダヤの利益のためのカエサル法令は、ユダヤのマグナ・カルタと呼ばれてきた。

カエサルは徴兵からユダヤ人を免除し、エルサレムの神殿に黄金を船で積み出すことを許可した。そしてユダヤの特別法廷(サンヘドリン)の権威を承認した。しかし、ローマの元老員の中には、これを面白くないと感じる者がいた。 〈中略〉 カエサルの暗殺ののち幾晩も、ユダヤ人集団はカエサルの火葬用の薪の積み重なった場所に来て嘆き悲しんだ。……結局、ローマ帝国を受け継いだアウグストゥス帝は、ユダヤ人の特権を回復させた。」

しかし、そんな特権を享受していたユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下のエジプト・アレキサンドリアで、「ディプロストーンの破壊」という悲惨な事件に遭遇する。

かの有名なアレキサンダー大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレキサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシア人と同じ特権を与えていたと言われている。“同じ”といっても、実際上の政治の特権はギリシア人が握っていて、支配階級はギリシア人によって構成されており、その一級下で経済機構を運営するのがユダヤ人の役目となっていたという。

 

アレキサンダーは、地中海の制海権を握るために南下してシリアを奪い、さらにシドン、ツロ、ガザをくだして、BC332年、ついにエルサレムに至った。同地のユダヤ人たちは、ラビ(ユダヤ教指導者)も民衆も皆、アレキサンダーを「大王」と称して歓迎し、恭順の礼を尽くした。これは彼らの聖なる文書『ダニエル書』の中に、その出現が預言されていたからだという。

 

アレキサンダー大王の死後、エジプトのプトレマイオス家とシリアのセレウコス家がパレスチナ地方の支配をめぐって対立。そして抗争するに及んで、ユダヤ人はパレスチナを捨てて続々エジプトに移住を開始。その多くがアレキサンドリアに集中した。そのため、アレキサンドリアは「ユダヤ人居留地」に指定されるに至った(BC320年頃)。もちろん、パレスチナに居残り続けたユダヤ人も多くいた。

 

しかし、プトレマイオス王朝滅亡後(BC30年)、ローマ帝国領となると、天賦の才能に恵まれるユダヤ人は、いつしか全エジプトの経済を握り、今の言葉で言えば「国立銀行総裁」や「輸出入公団総裁」のような地位まで占めるようになった。そして“ユダヤ商人ギルド連合事務所”ともいうべき「ディプロストーン」が設けられたのだが、これには付属工場と倉庫群があり、その威容は全東方を圧するほどで、「ディプロストーンを見ずに、壮大なものを見たというな!」という言葉さえあったという。

だが、来るべきものが来た。AD38年、ディプロストーンは破壊され掠奪され、全市にユダヤ人の血が流れたのである。

AD59年頃、ローマ貴族で前アジア総督であったルシウス・バレリウス・フラックスは、ユダヤ人による黄金積み出しに対する禁止令を強制しようとした。

その結果、ローマのユダヤ人に解任される羽目になり、デッチ上げの横領罪に問われてしまった。そこで、ローマの偉大な執政官キケロは、陪審員の前でフラックスを弁護する演説を以下のように展開した(AD59年10月)。

「さて我々は、黄金、それもユダヤ人の黄金にまつわる名誉棄損問題に取り組むわけであります。 〈中略〉 ユダヤがどんなに大きな集団であるか、またユダヤが政治にいかに影響力があるかということは、ご承知の通りです。私は声をひそめて、陪審員の方々に聞こえるだけの大きさでお話ししよう。というのも、私をはじめあらゆる善良なローマ人を妨害すべく、あれらのユダヤ人を扇動する者が大勢いるからであります。その者たちに少しでも手助けになることは、私の意図せざるところであります」

「毎年、黄金が定期的にユダヤ人の名において、イタリアおよび全ての我が属州からエルサレムに輸出されたため、フラックスはアジアからの黄金輸出を禁じる布告を出したのであります。陪審員諸君で、誰がこの行動を心から誉めないでおれましょう? 黄金の輸出は、以前にも再三再四にわたって、そして私の執政官在任中には最も厳しく、元老院から禁じられていたのであります。それに加えて、フラックスがこのユダヤの迷妄行為に反対したことは、彼が強い個性を持っている証拠であります。また政治集会において、ユダヤ人のやじ馬連中の強引さをたびたび封じ込めては国を守ったことは、彼の強い責任感の証拠であります」

裁判の結果、フラックスの横領罪の嫌疑は晴れた。

しかし、元老院による黄金積み出し禁止令は解除されてしまった。そのため、ユダヤ人の幸運はまだまだ続くと思われた。

この裁判の直後のAD66年、ユダヤの地の統治者の暴虐をきっかけに「熱心党(ゼロテ党)」というユダヤ人レジスタンスグループがローマの守備隊を襲うと、ローマ帝国内のほとんどのユダヤ人が武装蜂起し、ユダヤの独立を試み、ユダヤ人とローマ帝国は本格的な戦い(ユダヤ戦争)を開始したのである。

ローマ帝国軍の軍事力には圧倒的なものがあった。ネロ皇帝が初動させたローマ軍は、瞬く間にユダヤ人の大反乱を制圧(AD68年)し、ウェスパシアヌス帝の息子ティトゥス将軍はエルサレムを完全制圧(AD70年)。エルサレムは「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊された。

この戦争(第一次ユダヤ戦争)のユダヤ人犠牲者数は60万人とも100万人ともいわれている。

 

ローマ帝国軍によって陥落したエルサレムから逃れたユダヤ反乱軍の一部は、マサダの砦に逃げ込んだ。このマサダは、周囲を絶壁に囲まれた岩山で、かつてヘロデがここに堅固な要塞を作っていた。

しかしAD73年、967名のユダヤ人が7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、8000ものローマ帝国軍が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害して果てた。

そして、AD132年のユダヤ人による最後の反乱(バル・コフバの反乱)が鎮圧されると、それをもってユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。

これを機にパレスチナを去って外国に移り住むユダヤ人が急増した。これは「ディアスポラ(ユダヤ人の離散)」と呼ばれている。

ちなみに、ローマ皇帝ハドリアヌスは、AD135年、エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、「ソロモン第二神殿」の跡地に彼らの神であるジュピター(ゼウス)を祭る神殿を建設した。さらに当時弾圧の対象であったキリスト教に対しても同様の行為として、イエスが処刑されたゴルゴダの丘にヴィーナスの神殿を建設した。(※ この後、ローマ帝国がキリスト教を公認したのはAD313年である/コンスタンティヌス帝の「ミラノ勅令」)。

ところで、古代ローマ帝国で起きたユダヤ迫害のパターンは、中世でも起きた。アラブ人に征服されたスペインでは、スペイン人とアラブ人との間にユダヤ人がいた。やがてユダヤ人は経済を全面的に掌握し、その富はカリフをしのぐとまで言われるようになったが、やがて来るべきものが来た。ユダヤ人はスペインから徹底的に追放されてしまったのである。

スペインでは、ユダヤ人を強制的にキリスト教に改宗させる政策がとられ、ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者「コンベルソ」が現れた。しかし彼らはユダヤ人たちから「マラノ(豚)」と呼ばれ、蔑視された。
また、市民から「隠れユダヤ教徒」だと告発された「コンベルソ」は、「異端審問所」に連行され、拷問にかけられた。そして異端とされた者は、両手を縛られた上に、三角帽子をかぶらされて、火刑場に送られたのである。

 

そして、同じことは近世でも、ユダヤ系フランス資本が進出した帝政末期のロシアで起き、また、神聖ローマ皇帝の遺産を継いだヒンデンブルクとヴェルサイユ体制に支配されたドイツにおいても起きたのである……。

宗教の対立カテゴリの最新記事