歴代天皇 30代敏達天皇

歴代天皇 30代敏達天皇
6世紀中葉の天皇で、記紀では第30代に数えられる。『日本書紀』によれば在位は14年間とする。渟名倉太珠敷(ぬなくらふとだましき)(沼名倉太玉敷)天皇(命(みこと))、譯語田(おさた)天皇ともいう。息長真手(おきながまて)王の娘広姫(ひろひめ)を后(きさき)としたが薨(こう)じ、ついで豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(後の推古(すいこ)天皇)を后とする。
『日本書紀』には朝鮮三国(高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ))との交渉、造仏関係、あるいは吉備白猪(きびしろい)の屯倉(みやけ)に関する「田部の名籍」の伝えなどを、その治世におけるできごととして記している。墓は河内(かわち)の磯長(しなが)中尾陵(大阪府太子(たいし)町)とする。
[上田正昭]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

史上初めて夫婦ともに天皇となった敏達(びたつ)天皇と推古天皇である。

父親はともに欽明(きんめい)天皇。この時代、子供は母親のもとで育てられたから、同母兄妹の間の婚はタブーだった。しかし、異母同士の場合は「血の濃さ」がむしろ尊ばれた。

敏達天皇は572年、欽明天皇の崩御を受けて位に就いた。『日本書紀』によれば仏教を信じず、文学と歴史を愛した。欽明朝にもたらされた仏教をめぐっては、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が争っていた。当時の天皇(天皇号はまだなく、大王と呼ばれた)家には、有力豪族間の対立を収拾する専制権力はなかったのである。

敏達天皇の5(576)年、蘇我馬子の妹・堅塩媛(きたしひめ)の娘である豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が皇后に定められた。のちの推古天皇である。2人の間には、皇子(竹田皇子)も生まれている。そして敏達14(585)年、天皇が亡くなると、異母弟(炊屋姫には同母兄)の用明天皇が位を継いだ。だが2年後に亡くなり、欽明皇子の崇峻(すしゅん)が即位した。

しかし、崇峻朝は血なまぐさい事件が相次いだ。欽明の子の穴穂部(あなほべ)皇子が物部守屋に支持されて皇位を狙い、蘇我馬子に命を絶たれた。法隆寺に近い「藤ノ木古墳」の被葬者は、彼と同時に殺害された宅部(やかべ)皇子の2人とする説が有力だ。

このできごとを機に、物部と蘇我の対立は朝廷も巻き込んだ武力衝突に発展し、物部氏は滅亡してしまう。

さらに驚愕(きょうがく)の事件が起こった。崇峻天皇が馬子の指示で殺害されたのだ。臣下による天皇暗殺など、例のない事態である。しかし、『書紀』に馬子に対する批判は見られない。一連の行動は、朝廷内で黙認されていたとみていいだろう。

「ポスト崇峻」決定には曲折があったようだ。有力候補の押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子(敏達の長子)や竹田皇子は健康を害していたか、病没していた。用明の子の厩戸(うまやと)皇子(聖徳太子)は19歳と若すぎた。推戴(すいたい)されたのは、39歳になる炊屋姫だった。馬子の姪(めい)にあたり、何より「敏達天皇の大后(おおきさき)」という経歴が決め手になったのである。

「姿色端麗にして、ふるまいも規範にかなっていた」

『書紀』は、推古をこう表現している。容姿が美しいだけでなく、バランスのとれた判断力も持ち合わせた女性だったようだ。ただちに厩戸皇子を摂政に任じた。後継者の勉強をさせようとしたのだろう。

「退位」の慣行がない時代であった。75歳という長命を保ったため、推古朝は36年もの間、続くこととなる。

冠位十二階の制定などで官僚が組織され、道路などのインフラ整備も進んだ。中国で誕生した統一王朝の隋に使節を派遣し、国づくりを学んだ。1400年前の日本列島。政権を担った。

 

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