歴代天皇 25代武烈天皇

歴代天皇 25代武烈天皇

父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女の春日大娘皇女で、仁賢天皇7年に立太子したとされている。仁賢天皇の崩御後に高御倉(たかみくら)を泊瀬列城宮に設けて即位した。皇后には春日娘子をたてた。

武烈天皇は即位前後で全く別の人格である。その境にあるのが平群真鳥の事件である。富山の皇祖皇大神宮に平群真鳥の子孫竹内家が残っている以上、この部分は竹内家の伝承が正しいと判断する。この当時朝廷の有力豪族が飛騨国の痕跡を抹殺しようと図っていたのであろう。正しく物事を考えることのできる武烈天皇は、それを残そうと思っており、平群真鳥を策略で富山へ落ち延びさせ、失われつつあった飛騨国の言い伝えをまとめさせたのである。これが竹内古文献であろう。しかしながら長年書き写している間に、真実から少しずつ外れ、現在残っているような状態になったのではないだろうか。

武烈天皇が悪逆非道に描かれているが、具体的に詳しく書かれているわけではなく、ただ事象が書かれているだけであり、この記事は後で都合がよいように挿入したことがうかがわれる。精神異常を起こしていた可能性も考えられなくはないが、それなら、そのようなことが書かれていてもよいように思える。武烈天皇は飛騨国抹殺派の圧力に耐えながら国を治めていたのではないだろうか、後継者なしで早世しているのも暗殺された可能性が考えられる。実際「天書」では、「人有りて密かに帝を聖寝に刺す」と記録されており、武烈天皇は暗殺されたようである。

武烈天皇は崩御時18歳とされている。顕宗2年(492年)生誕となる。仁賢天皇38歳の時の子となる。11歳で即位し、18歳で亡くなった事になる。「真清探當證」を取り入れると武烈天皇は日陰の身を脱したAD486年の直後に世話になっている葦田宿禰の娘春日姫を娶り、AD489年に生誕したとされている。これだと武烈天皇即位時13歳で亡くなった時が21歳となる。皇子がいなかったとされているので若かったのは事実であろう。

武烈天皇の残虐行為について

これらのことは、日本書紀武烈天皇即位前の記事として記録されている内容は、即位後のことをまとめて記録してあると考える根拠となる。神功皇后も日本書紀では初年にその後の出来事をまとめて書いてある例もあり、武烈天皇でもそうだと言えよう。

日本書紀に「罪人を罰し」と書かれているように、罪人は厳しく罰していたようである。当然重罪の罪人を処刑すると思われるが、その処刑に日本書紀に書かれている出来事に近い方法を取ったのではあるまいか、そして、その処刑を武烈天皇は見ていたのであろう。その時の状況をオーバーに書いたのが武烈天皇の残虐行為として記録されたのではないか。

平群真鳥の事件

平群真鳥(へぐりの・まとり)・古代の偉人
5世紀頃の豪族 、雄略・清寧・顕宗・仁賢朝の大臣 。平群木菟の子。鮪の父 。雄略元年に大臣となる。
武烈即位前紀によれば、仁賢11年天皇が崩御し、皇子小泊瀬稚鷦鷯皇子(武烈)がまだ即位しなかった時その権勢は大いなるものがあり、百官は、朝は朝廷に昼は平群家に集まったという。
真鳥は国政をほしいままにし、遂には王位を望み、皇子の宮を造ると偽って自身が住み、また皇子に宮馬を求められると約しながらも進上しなかった。
子の鮪も皇子が妃にしようとした物部麁鹿火の女影媛を奪うなど、父子とも専横の限りをつくしたため、皇子は大伴金村と謀り父子を殺し、その後即位したという。
この事件は、平群氏の没落を伝え、また大王家以外の血筋の者でも実力により王権を奪取することがありえたことを示唆する点で興味深い。

しかし『古事記』では清寧の時に、鮪しかみえず、真鳥を実在しなかったとする説もある。

また鮪をも含め、この事件自体を後世の創作とする説もあり、その場合には平群氏の台頭は実は六世紀以後蘇我氏と結びついてのことと説明される。

 平群鮪殺害の時期

日本書紀あらすじ
日本書紀武烈天皇即位前紀に出てくる物部の影媛(物部麁鹿火の娘)には平群鮪という相愛の人がいた。しかし、影媛の美しさを聞いた稚鷦鷯の皇子(後の武烈天皇)は海石榴市の歌垣の夜、彼女を奪おうとするが果たせず、怒りにまかせて鮪を殺害する。愛するわが子を殺された平群真鳥は直ちに反乱の戦を起こそうとするが、逆に大伴金村に攻められて滅ぼされる。

古事記では鮪は志毘とされ、弘計王(顕宗天皇)即位前の出来事として記録されている。共に失恋した皇太子に殺害されているのである。

事実はどうなのであろうか、竹内古文献によると武烈天皇は平群真鳥を反逆者として処断したことにして、越中国に落ち延びさせ、歴史を編纂させたとある。自分の子を殺した天皇の命で汚名を着る任務を全うするとは考えられない。

影媛の父である物部麁鹿火は宣化天皇元年(536年)に没している。顕宗天皇即位はAD491年で、武烈天皇元年では502年である。この時娘が15歳前後だとすれば、少なくとも35歳から40歳前後と思われる。これがAD491年だとすれば536年には90歳前後であり、武烈天皇元年なら80歳前後となる。しかし、物部麁鹿火はAD531年筑紫君磐井の乱を平定しているのである。これは明らかに不可能であろう。影媛が物部麁鹿火の娘ならば、この事件はもっと後の時代となる。

武烈天皇の晩年、509年頃の出来事だとすれば、この時、物部麁鹿火35歳と仮定すると、536年には62歳となっており、磐井の乱平定時57歳となるので、ありうる話となる。平群鮪が殺害されたのは武烈天皇の晩年と思われる。

即位前

武烈天皇は日本書紀にある通り、正邪の区別がはっきりしていた人物のようである。罪人は憎んで厳しく罰し、無実の罪の者はよく調べてその冤罪を晴らしていたようである。そういった面ではまじめな正義感の強い人物だったといえよう。

武烈天皇は仁賢天皇の子である。仁賢天皇(億計王)は尾張で隠棲中飛騨国の人物との関わり合いが深かった。飛騨国は神武天皇即位時にその王位を神武天皇の継承させているが、飛騨本国には祭祀を継承する組織があったと思われる。履中天皇の時代、この王位も廃止されたと思われるが、飛騨国の有志が祭祀を継承していたのでおろう。

朝廷よりも長い歴史を誇る日本古来の王朝である飛騨国の存在は、朝廷にとって警戒すべき存在であった。飛騨国の祭祀者を王として担ぎ出して大和朝廷に取って代わろうという組織もあったと思われる。歴代天皇はその動きを封じるために色々と策を巡らせていたのではあるまいか。

億計王は雄略天皇から皇位を奪い返す算段として飛騨国の祭祀王の権威を利用しようとした。その計画は億計王が皇太子に認定されることによって、計画は中止となった。しかし、日の目を見ることができると喜んでいた飛騨の人々の落胆は大きく、億計王はその説得のために皇位を弟に譲った。億計王の計らいで、飛騨国の歴史を後世に正しく伝えるという約束を取り付け飛騨国の人々はおさまった。

ところが、古事記・日本書紀からは飛騨国の痕跡がほとんど分からない程に抹殺されている。億計王は仁賢天皇として即位した後、飛騨国の歴史を残す取り組みを実行しようとした。しかし、それには反対勢力が存在したのである。それは、蘇我韓子を筆頭とする勢力だった。

蘇我氏は武内宿禰Bの子である石川宿禰の子孫である。朝鮮半島経営に力を入れていたようで、朝鮮半島の人々との交流が深かったようである。蘇我氏には韓子・高麗等朝鮮半島系の名と思われるものが多い。

海外での活動が多かった蘇我氏は中国大陸での国どうしの興亡を身近に見ており、いずれ日本列島にもその興亡の波が押し寄せることを危惧していたと思われる。その興亡の波から朝廷を守るには、朝廷を一枚岩にして、海外の先進技術、思想を積極的に取り入れなければならないと考えるようになっていった。そのためには、飛騨国は邪魔な存在であった。飛騨国が存在するために、朝廷が一つになれないのである。

飛騨国の祭祀王が諸国に号令をかければ、朝廷の指示よりも飛騨祭祀王の指示に従うという傾向がみられた。それが、歴史の重さというものである。億計王はその権威を利用して大和朝廷を倒そうとしたのである。蘇我韓子はおそらくその計画を察知していたのであろう。

武烈天皇即位

この頃の皇位継承者は成人していることが絶対条件であった。ここまですべての天皇が成人後即位している。しかし、小泊瀬稚鷦鷯尊は仁賢天皇崩御時13歳であったと思われ、成人していないのである。そして、他に皇位継承者がいないのである。それを思わせる記事が日本書紀にある。

 

旧体制の武烈から新体制の継体への移行を、易姓革命の如く見て、武烈を悪玉であったようにみせて、継体が政権をにぎるのは天の使命であるかのように思わせるために、悪行をでっち上げたものではないか。

 

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