歴代天皇14仲哀天皇

歴代天皇14仲哀天皇

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? – 仲哀天皇9年2月6日)

『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 – 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。熊襲を討とうとした橿日宮に至ったが果たせず、即位9年で死去したと伝わる。和風諡号は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。

足仲彦天皇(=仲哀天皇)は倭建の御子である。成務天皇には子が無かったので、倭建の御子の足仲彦が皇位に即いたとなっている。おそらく、足仲彦が天皇として政務を遂行できるほどに十分に成長したため、成務天皇は皇位を譲ったのかもしれない。石上神宮の神宝の管理権を妹大中姫に譲ったと同じ様に高齢を理由にして。。

仲哀二年、気長足姫 (おきながのたらしひめ) を皇后とした。気長足姫は後の神功皇后である。これより先に仲哀天皇は大中姫を妃としていた。妃は香坂王と忍熊王を産んだ。この年、仲哀天皇と皇后気長足姫は敦賀に行幸して仮宮の笥飯宮を建てて滞在する。翌月、天皇は、多くない臣と兵を伴って南海道に行幸し、紀伊国の名草郡に仮宮の徳勒津宮を建てて滞在する。

ここで熊襲の叛乱の報を得る。天皇は喜び勇んで、熊襲を討つため仮宮を発して、瀬戸内海航路で穴門(長門国)の豊浦津に向かう。また、皇后の気長足姫にも敦賀を発って豊浦津で落ち合うように連絡する。皇后は途中、渟田門に着くが、ここで皇后が船上に食を取ったところ、「鯛が多く船の傍に集まった。酒を灑ぐと、鯛が酔って水に浮かんだ。海人これを獲て喜んで曰く、『聖王の賜うところの魚なり』と。そこの魚、六月に至れば、常に傾浮(あぎと)うこと酔えるがごとし」という海況異常が起こる。

その後、怡土縣主等祖五十跡手の出迎えを受け、天皇・皇后は儺県(なのあがた、奴国)に至って橿日宮を建てて住まう。この宮で、熊襲討伐を群臣たちと謀議するが、神が皇后に憑依して、熊襲を討つよりは、新羅に進攻する様に勧める。「新羅には金銀財宝があり、憑依した神を祭れば、戦わずして新羅は屈服し、また熊襲も服従する」と宣託する。しかし、天皇はこの神託を信じる事をせず、高い丘に登って大海を望むが、国を見つける事をできなかった。そこで天皇は神に、「見回してみたが海があるだけで国はなかった。神は自分を欺くのか? 自分は全ての神を祀ってきたが、それに漏れた神であるのか?」と反論する。神は皇后に憑依して、「自分には鮮明にみえる国があるのに、なぜ国が無いというのか。自分を誹って信じないのであれば、その国を得る事は出来ない。皇后は懐妊した。その子が得るであろう」という。しかし天皇は神託を信じることなく、熊襲を討とうとするが失敗する。

仲哀九年、天皇は急死する。神の罰が当たったのだ。一説では熊襲の矢にあたって死亡したともする。この時、皇后と武内宿禰は天皇の喪を隠した。武内宿禰らは天皇の遺体を海路長門の豊浦宮に運んで灯火を焚かずに仮葬した。橿日宮にいた神功皇后は新羅討伐(新羅の役)のため天皇の葬儀はできなかった。

仲哀天皇と気長足皇后が仮宮とはいえ敦賀の笥飯宮に行幸している。また、仲哀天皇は数百の手勢を連れて紀伊国の名草郡の徳勒津宮に行幸している。敦賀への行幸や後の名草郡への行幸と同様に提案したのは武内宿禰だった。

当時、武内宿禰は王朝の政務を統括していた。武内宿禰は、国内がほぼ平定できた事を覚えていた。それで、半島への進出を考えていたのだ。それは、半島を領有するだけが目的ではなく、もう一つの隠れた目的があった。



武内宿禰は、景行天皇紀二十五〜七年に北陸道と東海道に派遣されており、敦賀に大加羅国(=任那)の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が来ていた事を知っていた。もちろん都怒我阿羅斯等は単独で来たのではなく従者をつれていた。その従者の何人かが帰化して敦賀や近江の北部に居住していた。帰化人は、大加羅国の倭種であり、言葉は通じた。

その帰化人から半島の情報を仲哀天皇に聞かせて、半島進出の気持ちを持たせようとした。あるいは、敦賀には任那との交流拠点があり、半島の情報が得やすかったとも考えられる。進出の対象が日本海側に面した新羅であったのだ。当時の新羅は邪馬台国の時代の化外の地ではなく、因幡国出身の「昔脱解」が国王になり、同じ倭種の瓠公を大臣にして、国力をつけ、辰韓の一小国であった新羅を半島の大国へと発展させていた。

それでも、まだ国は貧しく、百済の助力のもと東晋と交易し、また、北の高句麗には隷従していた。新羅の交易品は鉄の他には絹織物しかなかった。高句麗王朝への朝貢はもっぱら献女であった。高句麗に新羅は献女外交を行い、高句麗王朝から金銀の下賜を受けていたと思われる(『太平御覧』秦書 372年、「新羅王、楼寒は、前秦の符堅に美女を献じた」。

高句麗に対しても同様であったと思われる。ここで、間違えてならないのは、高句麗は韓民族ではなく、農耕・狩猟・牧畜をする濊貊系民族で騎馬ができる民族の国であった。後述するが、半島に進出した倭国軍はそれまでに遭遇した事の無い高句麗の騎馬軍団に完敗することになる。武内宿禰は、東晋が影響力を落とした半島の新羅と百済を討って朝貢国にしようと計画していたのだ。あるいは文化程度が高い高句麗との交流を図ろうとしたのかもしれない。

神功皇后

神功皇后=卑弥呼

神功皇后 父方は開化天皇五代の孫である息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)、母方は天日槍六代の孫の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)である(『記紀』)。それ故、新羅遠征を遂行した神功皇后は天之日矛の裔孫となっている。神功皇后の母の葛城高顙媛の出身地はわからないが、葛城を名に持つことから、大和国の葛城邑出身ともとれる。葛城郡は二上山から葛城山にいたるたる金剛山地の東側山麓に位置する。奈良盆地の西側になる。葛城については、『紀』が記している。

神武東征の時、高尾張邑に赤銅の八十梟帥がいて、神武に抵抗した。その体躯は侏儒の如くとなっている。葛の網で捕獲されて殺され、それゆえに高尾張邑が葛城邑と呼ばれるようになった。先住の民であったのであろう。強く抵抗したためか、容姿を貶められている。この高尾張邑に入り、八十梟帥をひきいて神武に抵抗したのが、饒速日の御子、天香語山なのだ。紀伊国の熊野邑(いやむら)から、転身していたのだ。天香語山とその子孫は高尾張邑の姫と通婚し、尾張氏を興している。その尾張氏は現在の愛知県に移住し、後世、乎止与と美夜受媛親子が産まれている。

葛城高顙媛の「高顙」は「高尾張」と同じく「高」をもつことから、「高顙」も「高顙邑」のことであるといえよう。葛城高顙媛は「葛城の高顙邑の姫」と解する事が出来る。葛城の尾張氏と但馬の「遅れてきた邪馬台国人」である天之日矛の裔孫が、但波の海部氏を介して繋がりを持ち、葛城邑に葛城高顙媛が生まれたと考えたい。当然、天香語山の後裔になるのは勿論のこと、天之日矛を介して忍穂耳の後裔ともなり、邪馬台国の台与および卑弥呼(天照大神)が祖となることになる。

父である息長宿禰に事績はなにもない。気長足姫の父親としてのみ登場する。その系譜では、迦邇米雷 (かにめいかづち) と丹波の遠津臣の娘、高材比売 (たかきひめ) を両親とし、山代之大筒木真若を祖父とする。祖母は丹波能阿治佐波美比売である。迦邇米雷は息長氏が奉斎する朱智神社(しゅちじんじゃ、山城国綴喜郡筒城郷)(図8)の祖神であり、垂仁天皇の時代にこの地を治めていた。

迦邇米雷の妻と義母が丹波出身の姫であることから、丹波道主との関係が考えられ、丹波道主の母である息長水依比売へと遡ることができる。その息長水依比売は淡海を支配した天之御影の娘であり、天津彦根(天津日子根)の孫になる。天津彦根は天照大神の三男であり、淡海に東遷してきていた。この長ったらしい系図は、『記紀』が、崇神天皇の前に九代の天皇を設定した事に起因する事は明らかである。要約すれば、邪馬台国後裔の権力者(天津彦根=天津日子根と天之御影)が三世紀中頃に淡海地方に東遷して開発した。

ここで興った豪族の一氏族である山代之大筒木真若とその子の迦邇米雷が、垂仁天皇の時代に山城国綴喜郡筒城郷に移住した。こちらの方が、大和の都に近く、王権の動静を把握しやすかったからである。

山代之大筒木真若と迦邇米雷は、二代に渡り、丹波出身の妻をとおして息長水依比売と繋がり、迦邇米雷の子の息長宿禰の代になって息長氏=気長氏を名乗ったのだ。息長宿禰は母系で「原息長氏」を継承したともいえる。

葛城高顙媛を葛城邑に見つけ出してきたのが、饒速日の御子天香語山の後裔の武内宿禰であったのだろう。葛城高顙媛と息長宿禰の間に産まれた気長足姫は、卑弥呼と台与まで、系譜を遡ることができる。

気長足姫の出自をみれば「仲哀天皇の暗殺」の理由は自明となるであろう。仲哀天皇にかわる天皇はすでに気長足皇后に身籠られていたのだ。では父親は誰か? ずばり、私は武内宿禰と判断する。二人は仲哀天皇に新羅を討てば金銀財宝が手に入るといって新羅遠征を勧めた。勿論、神功皇后の神憑かりは芝居である。

巫女的性格の女性は神憑かりになりやすいという事は、非科学的である。古も現在も、神憑かりはまったくの芝居である。二人の意に反して仲哀天皇は熊襲征伐に固執し、父の倭建同様に神をないがしろにし過ぎた。血筋であろう。二人の計略は狂った。それに神功皇后は懐妊してしまった。そのため、橿日宮で「仲哀天皇の暗殺」に及ばざるをえなくなったのだ。神功皇后が出産してしまえば、天皇は我が子でないことをわかってしまうからである。二人は仲哀天皇の死亡を隠した。すでに、新羅遠征の態勢が整っていたからである。

他方、『記』では、仲哀天皇の死は神罰となっている。橿日宮での夜、仲哀天皇、神功皇后および武内宿禰の三人の中での急死である。武内宿禰の配下の仕業であろう。天皇の急死は、宮内に混乱をもたらした。

筑紫の国あげての大祓の儀礼が行われた。その斎場で武内宿禰は機転を利かせ、皇后に憑依した神の神託を求め、「すべてこの國は、皇后樣のお腹においでになる御子の治むべき國である」との答えを引き出す。

そこで武内宿禰はさらに、「皇后のお腹においでになる御子は何の御子でございますか」と問うたところ、神は「男の御子だ」と答えた。そこで更に「今かようにお教えになる神樣は何という神樣ですか」問うたところ、「こは天照大神の御心なり。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神なり。今新羅の国を求めむと思えば、天神地祇、また山の神と河海の諸の神に悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、真木の灰を瓠に入れ、また箸と葉盤を多く作って、皆皆大海に散らし浮けて度るべし」言った。

このように『記』では武内宿禰の機転で、仲哀天皇の斎事が、天照大神と住吉三神による、皇位継承の承認と、新羅遠征の推進の場になってしまったのだ。「仲哀天皇の暗殺」は「神の御心による死」にすりかわってしまったといえる。神託を述べたのは勿論、気長足皇后である。武内宿禰と気長足皇后の芝居であったのだ。

仲哀九年秋九月、諸国から船と兵士が集まった。神功皇后は男装をして、大将の印である斧と鉞を持って、大軍に命じた。
「金鼓の音が整わず、天子の旗や軍旗が乱れる時には、兵卒の士気も整わない。敵の財宝をむさぼって、自分のものにしようと考えたり、家族の事を心にひきずったりすると、敵に捕まってしまう。



敵が少なくても侮ってはならない。敵が強くても屈してはならない。女人に手を付けようとする者を許してはならない。また、降伏する者を殺してはならない。戦いに勝てば必ず褒賞を取らせる。逃げだす者は罪となる」。日本の軍隊は古より軍規を厳しくしていたのだ。

冬十月、軍船団は対馬の和珥津を出発した。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけた。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗り、舵や櫂を使わずに新羅に着いた。その時、船が国の中に到達するほどの大波が起った。

その様を見た新羅の王は戦々恐々として、為す術もなく、諸人を集めて「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。

これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか」と言い終わらないうちに、軍船が海に満ちて、旗が日に輝いた。鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡り、新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐れおののいた。そして「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言う。その国の神兵たちだろう。

挙兵して応戦することは無理だろう」と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏した。これによって皇后は新羅を馬飼いの国と定めた。

身籠っていた気長足皇后は筑紫にかえって、誉田天皇を産む後の応神天皇である。この時、仲哀天皇の御子とするため、仲哀天皇の崩御時と誉田別皇子の出生時の時間差を「鎮懐石」(腰に石を挿んで出産を遅らせる)で取り繕う。誉田別皇子の出産は、もっと早かったのだ。筑紫に凱旋後の出産にするために、「鎮懐石」の挿話を作ったのであろう。夫の児か愛人の児か、懐妊の時期は女性だけがわかることである。誉田別皇子は、皇后と武内宿禰の児であるのだ。

これから誉田別皇子を皇位に即けるための戦いが始まる。翌年、皇后は筑紫から長門の豊浦宮に移り、仲哀天皇の喪(遺骸)を喪船に収めて、海路、大和に向かった。仲哀天皇と妃の大中姫の間にできた香坂王と忍熊王は、皇位を奪われるのを怖れ、策略を巡らし播磨の赤石に仲哀天皇の陵を作る名目で兵を配置して待ち伏せ、皇后、誉田別皇子および武内宿禰の一行を討たんとした。

二人は祈狩り(うけひがり)をするが、兄の香坂王は現れた赤猪に食殺される。これを凶兆と判断した忍熊王は兵を摂津まで引く。忍熊王軍の待ち伏せを察知した皇后は武内宿禰と作戦を立てる。結果として忍熊王軍は武内宿禰率いる皇后軍と激闘の末、淡海まで追いつめられ、忍熊王は琵琶湖に入水自殺する。『紀』は皇后軍と忍熊王軍の激闘を潤色たっぷりに記す。

摂政元年、神功皇后は皇太后になる。この年の干支は辛巳である。
摂政三年、誉田別皇子を皇太子とし、橿原に若桜宮を建てて政治をおこなう。この年、誉田別皇子は三歳である。
ここで、『紀』の年記と西暦とを検討してみよう。神功皇后摂政元年の辛巳年は381年か441年である。仮に381年を採用すると、『広開土王碑』の記す新羅侵寇391年より10年前になる。

応神元年の庚寅年は390年であり、『広開土王碑』の記す新羅侵寇391年とほぼ一致する。『記』では応神は胎中天皇となっている事から、神功皇后の妊娠中から天皇であったと理解すれば、応神元年の庚寅年が390年であってもよいことになる。勿論、実質の天皇としての即位は後年のこととなるのは当然である。従って、応神天皇の摂政としての神功皇后摂政元年は庚寅年390年とすべきであろう。これで、西暦のうえでは、『広開土王碑』の記す年号と神功皇后摂政元年とが正合する。誉田別が皇位に即いた後も、神功皇太后が摂政を行っていても不都合ではない。

誉田別が立太子することで、邪馬台国系統の天皇を立てるという神功皇后と武内宿禰の遠大な計画が実現したのである。応神天皇の代で、皇統が狗奴国後裔から邪馬台国後裔に転換したのだ。邪馬台国王統を再興したと見てもよい。邪馬台国王統の再興こそが、気長足皇后が果たした大いなる功績「神功」であったのだ。それ故、神功皇后なのである。応神天皇以降、歴代の天皇は全国に存在する邪馬台国および不弥国(物部)後裔の豪族の力を結集することで、河内の地に巨大墳墓が築造できることになったのだ。巨大墳墓を河内国に築いたことから、応神天皇以降の王朝は河内王朝とよばれることもある。河内は、神功皇后の出身地である葛城邑から背後の金剛山地を越えた西側に広大に広がっていた。一方、狗奴国出身の崇神天皇や垂仁天皇などは大和国内の豪族しか結集する事が出来ず、巨大陵墓の築造はできなかった。

 

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