歴代天皇44 元正天皇

歴代天皇44 元正天皇

生年:天武9(680) 没年:天平20.4.21(748.5.22)
奈良時代前期の女帝。在位は霊亀1(715)年9月から神亀1(724)年2月。名前は氷高皇女。天武天皇皇太子草壁皇子と元明天皇の長女。

和銅7(714)年二品で食封1000戸を与えられ,翌8年1月一品。9月母の譲位を受け36歳で即位。

このとき,のちの聖武天皇は15歳であるが未だ幼稚とされ,一方氷高は落ち着いた考え深い人柄であり,社稷保持のために即位するとしている。その治世前半は母上皇と藤原不比等,ふたりの死後は長屋王が政権を担当。律令支配が軌道にのりその矛盾が早くも表面化するなかで,国郡分割・郷里制施行など地方行政組織の整備,計帳他文書行政の充実,浮浪人・私度僧対策,養老律令選定,『日本書紀』の完成,さらに土地対策として養老6(722)年良田百万町歩開墾計画と翌年三世一身法発布などの政策が打ち出された。神亀1年聖武に譲位,太上天皇となる。3年夏大病となるが回復。

天平1(729)年には妹吉備内親王とその夫長屋王が誣告により自殺し光明立后が実現するが,これに関して,またその後の政治の変動についても彼女の立場は不明である。

しかし藤原広嗣の乱(740)を契機に聖武が平城をすて転々と遷都した際,一時紫香楽の聖武,難波の元正・橘諸兄と皇権の所在が分裂した時期があり,また天平15年には皇太子阿倍が元正の前で五節舞を舞うことでその地位を確かにするなど,天皇家の尊長としての立場を保っていた。

19年暮れに発病,翌年死去。母と同じ佐保に埋葬される。「長屋王邱」跡から出土した木簡に彼女の名があり,この屋敷との関係が注目される。

【バスリザーブ】で格安高速・夜行バス予約

 

長屋王

大宝選任令の蔭叙年齢規定によって大宝4年(704年)の初叙時の年齢を21歳として天武天皇13年(684年)誕生説が有力であったが、『懐風藻』の記事にある享年54歳に基づき天武天皇5年(676年)とする説もある[2]。父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。

 

長屋王の父は高市皇子である。高市皇子は、壬申の乱のときに父の天武天皇から軍の指揮権を委ねられたほどの実力者であった。天武天皇亡きあと、持統女帝の即位直後、高市皇子は太政大臣となり、藤原京造営など、政界のトップとして時代をリードする。

これに対して、持統女帝の夢である軽皇子の即位のために腐心したのが藤原不比等で、高市皇子の死というタイミングをとらえて一気に即位を実現(文武天皇)する。逆に言えば、高市皇子が亡くならなければ持統女帝の夢は実現できなかったのであり、つまりそれほど高市皇子の存在は大きかった。

高市皇子(696年没)亡きあと、藤原不比等は文武・元明・元正三代の天皇を支えて、皇室の信任を一身に集め、時の最高位であった右大臣に昇りつめた。その不比等が亡くなる(720年)と、翌年、不比等に代わって右大臣の座に着いたのは、高市皇子の子、長屋王(45歳)であった。

一方、不比等の四人の男子は、各々、一家を構えて藤原四家(南家、北家、式家、京家)として政界に重きを成した。つまり、高市皇子と不比等のにらみあいは、世代交代して「長屋王」対「藤原四兄弟」として受け継がれた。

長屋王は仏教の信仰あつく、大般若経全巻の書写(「長屋王願経」)という大事業を二度も行なっている。また唐の仏教界に千枚の袈裟(けさ)を贈ったが、そこには次の文字が縫いとりされていた。「山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁」(山川、域を異にすれども、風月、天を同じゅうす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん)。

中国と日本、国は違うけれども、風や月は同じ空のもとにある。この袈裟を寄進して仏のご縁を結ぼう、というのである。このことは唐の仏教界では有名だったようで、あの鑑真和上の物語にも出てくる。

日本からの使いの僧が、鑑真の弟子の誰かを日本に派遣してもらいたいと懇願したとき、鑑真は弟子たちを集めて、この長屋王のことを語り、「日本は仏教に有縁の地である」と、有志を募ったという。結果的には誰も手を挙げず、和上みずから渡日を決意したが、その決意の動機は長屋王の寄進にあったわけである。

 長屋王の変

その長屋王が「密告」によって逮捕されるという事件が起こった。「長屋王の変」(729年)である。

「密告」の内容は「長屋王、ひそかに左道(さどう)を学びて国家を傾けんと欲す」(以下、引用は『続日本紀』)というもので、「左道」とは「邪まな道」、つまり呪術のたぐいであり、端的に言えば「天皇を呪い殺す」ことである。

対応は迅速かつ的確で、「その夜、使いをつかわして三関(さんげん)を守る」。三関とは鈴鹿関(伊勢)、不破関(美濃)、愛発関(越前)で、関所を閉じて反乱者が東国へ逃亡できなくする、つまり畿内に閉じ込めるのである。

それから式部卿藤原宇合(うまかい)が六衛府の兵を率いて長屋王邸を囲み、翌日には邸内で取り調べが行なわれた。その糺問使は舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王ほか4名、その中には中納言藤原武智麻呂(むちまろ)もいる。即断即決、翌日には「王をして自尽せしむ」。その妃である吉備内親王(きびのひめみこ)と、膳夫王(かしわでおう)をはじめとする子どもたちも「自経(みずから、くびくくる)」。さらに長屋王家で働く全員が逮捕されて、長屋王一族は壊滅した。

ところが、すぐに次のような聖武天皇の勅が出る。

「吉備内親王は無罪・・・その家令・帳内(職員・従者)らは放免」、さらに「長屋王は犯によりて誅に伏す。罪人に準ずるといえども、その葬(はぶり)を醜(いや)しくすることなかれ」。長屋王は犯罪者だが、葬礼までみじめなものにするな、というのである。また、関係者7人が流刑に処されたものの、ほかの90人は許されたし、長屋王の兄弟姉妹、子孫ら縁坐すべき人々は「男女を問わず、皆ゆるせ」とある。寛大な処分である。

事件から9年も経ったころ、長屋王の犯罪を密告した中臣宮処東人(なかとみのみやこのむらじあづまひと)が口論の末に斬殺されるという事件が起こった。『続日本紀』には「東人は長屋王のことを誣告(ぶこく)せし人なり」とある。誣告とは無実の人を陥れる訴えをすることであり、国の正史が長屋王は無実だったと記しているに等しい。以上が「長屋王の変」の経緯である。

「変」の翌月、藤原武智麻呂が大納言に進んでいる。これは政界トップの地位で、それまで左大臣としてトップにいた長屋王にとって代わるものである。しかしそれ以上に重要なのは、さらに半年後の藤原光明子の立后である。つまり「長屋王の変」とは、光明子立后を目的とした藤原氏によるクーデタだった可能性が大きい。

長屋王邸跡

国内&海外ホテル予約『トリバゴ』

発掘が物語るのは、広大な邸宅、そこで一族とさまざまな職種の人々数百人が暮らす、まるで宮中のような組織、各地から送られる食糧や山海の珍味。当時の貴族はそんな暮らしだった。木簡から浮かび上がった暮らしぶりが当時の貴族の平均的な例にならない、特殊例かも知れないことを示唆された。長屋王という皇室をさえ凌駕しかねない権力者の贅沢三昧の特殊例かもしれない。否、私はそうだろうと思う。『続日本紀』に書かれた災害や飢饉の記事を見れば、平城京の平均的な貴族がそんなに贅沢であったはずがない。

藤原四兄弟

藤原武智麻呂(680年 – 737年)(藤原南家開祖)

 

藪(高倉)家(公家)
中園家(公家)
高丘家(公家)
工藤氏(武家)
伊東氏(武家)
伊藤氏(武家)
二階堂氏(武家)
相良氏(武家)
吉川氏(武家)
天野氏(武家)
中川氏(武家)
川井氏(武家)
分部氏(武家)
狩野氏(武家)
千秋家(社家)など

藤原房前(681年 – 737年)(藤原北家開祖)

藤原宇合(694年 – 737年)(藤原式家開祖)

藤原麻呂(695年 – 737年)(藤原京家開祖)

 

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

日本最大級のお墓ポータルサイト「いいお墓」

天皇カテゴリの最新記事