歴代天皇96後醍醐天皇

歴代天皇96後醍醐天皇

南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日(文保2年2月26日) – 1339年9月18日(延元4年/暦応2年8月15日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。

徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日(1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚、3月29日(4月30日)に即位。30代での即位は1068年の後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。

後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、自己の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。

正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。

この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。

大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。

正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。

天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。

大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。

元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。

幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流された。

この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言。さらに関白の鷹司冬教を解任した。

帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。

6月5日、高氏が鎮守府将軍に任命され、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を与えられ「尊氏」と改めた。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月23日に護良親王を征夷大将軍に任命する。

6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を北条氏一族のみと定め、知行の安堵を諸国の国司に任せたもので、事実上前令の撤回であった。

記録所、恩賞方、9月には雑訴決断所がそれぞれ設置される。関東地方から東北地方にかけて支配を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。

元弘4年/建武元年(1334年)正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められる。また、年号が「建武」と定められる。1月には天皇の皇居にあたる大内裏の造営のための二十分の一税などの新税が計画され、土地調査が行われる。『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていない。この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政の問題が早くも露呈する。

5月には諸国の本家、領家職が廃される。徳政令が発布され、寺社を支配下に置くための官社解放令が出される。

また、雑訴決断所の訴訟手続法10ヶ条が定められた。8月には新政下の混乱した世相を風刺する二条河原落書が現れた。将軍職を解任され、建武政権における発言力をも失っていた護良親王は武力による尊氏打倒を考えていたとされ、10月には拘束を受け、鎌倉へ配流される。12月には八省卿が新たに任命され、実力を重視し家格の伝統を軽視した人事が行われる。

建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。

鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。

この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、基本的には武士を嫌悪する後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。

仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。

時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据え、乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。

尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。

後醍醐天皇は尊氏のこの要請を拒絶し、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は建武2年(1335年)12月、箱根・竹ノ下の戦いで敗北する。建武3年(1336年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。

同月、後醍醐帝は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。

9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。兵糧もつき、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。

後醍醐帝は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。

ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。

足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳没)。

政治

後醍醐天皇が政治理念を標榜した言葉として『梅松論』にある「現在の例もかつては新儀であった。朕の新儀は未来の先例たるべし」という発言が知られる。

新政の当初は院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍などを設置せずに政治権力の一元化を目指しており、表面的には復古王政を装いつつ、内実は先例主義を否定する革新的な政治路線であった。後醍醐天皇やその近臣らは中国への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁制を目指していたとも考えられている。征夷大将軍については前述のように護良親王を任命することになったが、摂政・関白は建武の新政期にはついに任命しなかった。ただし二条道平と近衛経忠を内覧に任命した。

元弘4年/建武元年(1334年)正月に定められた「建武」の年号は、中国の後漢王朝の25年に劉秀(光武帝)が王莽を滅ぼし漢王朝を復興した際に定めた元号であり、先例とは打って変わって、辛酉革命説により「武」の一字が不吉であると断固反対した公家衆の反対を押し切って定めたものであった。

後醍醐天皇は朝廷内部に有力な基盤を有しなかったことも弱点であった。天皇は大覚寺統傍流の出身であり、「中継ぎ」を前提とした即位であったために治天の君になる資格を有しておらず、退位後も院政を行うことが出来なかった。

そのため後醍醐天皇が自己の子孫の皇位継承権を確立するためには、大覚寺統嫡流(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)や持明院統及びこれを支持する公家社会主流派との争いに勝利しなければならず、討幕運動自体も鎌倉幕府が皇位継承の複雑化を恐れて後醍醐のこうした動きを認めなかったことに端を発している。

更に建武の新政開始後も先の光厳朝時代の官位否定などによってこの時期に官位の昇進を得ていた公家社会主流派を反対派に追いやった上、先の討幕運動の過程で日野資朝・花山院師賢・北畠具行らの天皇派の公卿が命を落としたために、後醍醐天皇は公家社会全体の掌握に困難をきたしていた(近衛経忠ら少数の例外を除いた摂関家のほとんどをはじめとした公家社会主流派は後に北朝を支持することになる)。

新政を批判したものとして、建武元年(1334年)8月には新政を風刺した『二条河原の落書』が書かれる。延元3年/建武5年(1338年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行い、北畠親房の『職原抄』や公家の日記などにも新政への批判や不満を述べる文章があるなど、武家や庶民のみならず、後に後醍醐天皇方について北朝と対立した北畠父子のような公家でさえ、新政を支持していなかったことが示唆される。後に三条公忠は「後醍醐院の措置は物狂の沙汰が多く、先例にならない」と非難している。

もっとも、後醍醐天皇が始めたものの中でも先例になったものもある。代表的なものは公家領の分割を制限して家督・家記・邸宅などからなる「家門」と所領である「家領」を一括安堵して嫡男に継承させる方針を打ち出したことである。これは足利尊氏によって治天の君に立てられた北朝の光厳上皇のもとでも引き継がれて、公家の家督及び所領を治天の君あるいは天皇の安堵を経て嫡男が単独継承する原則が定着することになる。

実質的に全国の土地を支配していた武士を天皇が直接支配することは前例のないことである上、性急な政策であったため武士たちの支持を得ることはできなかった。倒幕の功に応じて十分な恩賞を与えられた武士は、足利尊氏、新田義貞、楠木正成ら一部に過ぎず、最初から倒幕運動に加わって六波羅攻略に功を立てた赤松則村(円心)は逆に播磨の守護職を没収されているなど、倒幕の功に対する恩賞が不公平であった。

さらに地方の実情や慣例を無視して恩賞が宛がわれたため、1つの土地に何人もの領主が現れて混乱し、恩賞の裁定をやり直さなくてはならないこともしばしばであった。このため「綸言汗の如し」といわれる天皇の無謬性が揺らぎ、朝廷の権威が低下した。

大覚寺統

第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。

正嘉2年(1258年)、後嵯峨上皇は後深草天皇(当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の伏見天皇、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。

その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は鎌倉幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。

しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。

後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。

これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。

持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。吉野に逃れた大覚寺統の天皇(南朝)と、足利尊氏に擁立された持明院統の天皇(北朝)の対立時代=南北朝時代となる(以後の詳細は南朝の項目を併せて参照のこと)。

観応の擾乱の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、半年で崩壊する。後に足利義満の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は終わった(南北朝合一)。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を15世紀半ばまで続けた(後南朝)。

亀山天皇(90代)

後宇多天皇(91代)

後二条天皇(94代)

後醍醐天皇(96代、南朝初代)

後村上天皇(97代、南朝2代)

長慶天皇(98代、南朝3代)

後亀山天皇(99代、南朝4代)

 

持明院統

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。
基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称した)。
そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院(暉子内親王)が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して正安4年(1302年)に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。
後、後小松天皇の代に明徳の和約によって皇統は持明院統に統一されることとなる。だが、その系統は次の称光天皇の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続くことになった。

現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫であるが、初期から三分裂(後二条天皇流、後醍醐天皇流、常盤井宮流)していた大覚寺統ほどではないものの、持明院統も後半では崇光院流と後光厳院流の二つに分裂した。

正平一統の際に、当時の治天の君であった光厳上皇、その弟である光明上皇、当時の北朝の天皇である崇光天皇、皇太子である直仁親王ら北朝の皇族のほとんどが南朝軍に連行されてしまった。

その際、僧侶になる予定で妙法院に預けられていた崇光天皇の弟宮を確保した足利氏は北朝方廷臣と図って、この宮を擁立した。これが後光厳天皇である。

新帝は三種の神器も当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」を欠いた状態での即位を余儀なくされた上、これに激怒した南朝軍によって京都を追われ、足利氏とともに美濃や近江を転々する経験をした。このため、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。

その後、南朝は光厳法皇(上皇)や崇光上皇らの返還に応じた。その際、治天の君であった光厳法皇によって「持明院統の嫡流」と位置付けられていた崇光上皇に対して、南朝方は自身及び子孫の皇位継承権を放棄するように迫り誓約させた上で京都への帰還を許した(『看聞御記』永享5年11月23日条、『満済准后日記』永享5年10月23日条、『建内記』文安4年3月22日条)。

光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、法皇は長講堂領など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、皇位継承権は崇光天皇の子孫(=崇光院流)にある姿勢を明確にした。

これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。また、後光厳天皇は光厳法皇は正平一統以前は自身と崇光天皇の子を全て出家させて、直仁親王(正平一統による廃太子後に出家)の子孫に皇統に一本化しようとしていた事情を知っており、その可能性が亡くなった現在、従来の皇位継承は白紙になったと捉えていた。

ところが、光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、室町幕府にその意向を示した。折しも幼少の将軍足利義満の時代であり、管領として義満を庇護していた細川頼之は幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。

これに従って後光厳天皇は実子の後円融天皇に譲位、更に11年後に後円融天皇が実子の後小松天皇に譲位した際にも既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立したものの、義満の権勢の前には如何ともしがたかった。

加えて南朝方と依然交した誓約は後光厳院流に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた栄仁親王は祖父の光厳法皇から保証されていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに出家した。

親王の子孫はその居所から「伏見宮」と称された。後小松天皇は足利義満・義持親子の庇護を受けて明徳の和約による皇統統一に成功し、続いて長男の称光天皇に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の治仁王が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。

ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の小川宮も兄に先だって没した。後小松上皇というより、後光厳院流には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々(後南朝)はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。

苦悩した後小松上皇は伏見宮を継承していた栄仁親王の次男・貞成王を自己の猶子として親王宣下を行い(応永32年4月16日)、万が一の事態に備えようとした。ところが、皇位を奪われるのではないかと不安を抱いた称光天皇が6月28日になって出奔を図った(『薩戒記』)。

これに驚いた後小松上皇は一転して貞成親王に出家を迫り、閏6月3日に親王は出家させられることとなった。ところが、これによって皇位継承問題は振り出しに戻っただけではなく、後小松上皇は称光天皇・貞成親王双方との関係を悪化させた。ところが、正長元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。将軍足利義教は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。

上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが後花園天皇である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も立太子もなく即位することとなった。

新天皇の元でも後小松上皇が院政を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流の継続を意図して新天皇を崇光院流・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。

これには新天皇の即位によって皇統が崇光院流に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇は『本朝皇胤紹運録』を編纂させ、南朝の天皇の記述を排除するとともに後花園天皇を自分の子として系譜に書かせ、伏見宮と切り離して記させた。永享5年、既に法皇となっていた後小松法皇が崩御した。

その際に3ヶ条からなる遺詔を残したことが『建内記』(文安4年3月6・23日条)及び『満済准后日記』(永享5年10月23日条)から知る事が出来る(ただし、後者は2ヶ条と記されている)。それは、「後光厳院流を断絶させないこと、すなわち貞成親王に太上天皇の尊号を贈って後花園天皇との親子関係を認めることは許さない」、「自分の仙洞御所を伏見宮(貞成親王)の御所にしない」、「自己の追号を後小松院とすること」であった(『満済准后日記』は尊号と仙洞御所の件を合わせて「後光厳院流を断絶させないこと」の1ヶ条とみなしたために2ヶ条と記されているのである)。

後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「諒闇」の儀式を行うべきと主張した。当時の公家政権に大きな影響力を有した前摂政一条兼良や准后満済、将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇が実施されることとなった。

この際満済はかつての崇光天皇が南朝方と誓約した件を持ちだし、崇光院流には皇位継承権がないことをほのめかす主張している(『満済准后日記』永享5年10月23日条)。これに貞成親王は激怒し、兼良や満済の天皇への不忠を詰っている(『椿葉記』)。

だが、後花園天皇が成長すると、この状況に不満を抱くようになり、父である貞成親王や弟の貞常王を優遇する方法を模索するようになる。永享8年後小松法皇の仙洞御所の一部が新しい伏見宮邸の敷地として献上された(ただし、先の遺詔に配慮して敷地の全部を明け渡すことは回避された)。

続いて嘉吉3年には天皇から貞成親王に対して、まず貞常の元服と親王宣下を行い、その後に尊号を奉る意向が伝達された。(『看聞日記』嘉吉3年4月26日条)。文安2年(1445年)3月16日、関白二条持基の加冠によって貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった広橋兼郷と白川雅兼が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者が後小松上皇の側近であり貞成親王への尊号と、その前提となる貞常への親王宣下に反対して、貞成親王や貞常王に対する誹謗を行ったとも言われている。

この騒動後の6月27日貞常王への親王宣下が行われた。続いて文安4年3月になると、後花園天皇の貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。『建内記』の著者である万里小路時房が後小松法皇の遺詔を持ちだして天皇を激しく諌めたのもこの時のことであった。

だが、天皇の意思を変えることは出来ず、同年11月27日、貞成親王は天皇の実父であることを理由に太上天皇の尊号を贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。

これによって後光厳院流が称光天皇の代で断絶したことと崇光院流によって皇位継承が行われることが確認されたのである。崇光院流が現在の皇室の直接の祖先にあたる。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、世襲親王家としての地位を認められることとなった。

もっとも、後小松法皇の没後の法要が後花園天皇によって長く国家的行事として行われたのに対して後崇光院の法要が国家的行事の性格を有していない(伏見宮家の行事の範囲で行われている)ことから、後花園天皇が自身による後光厳院流の継承を否定していた訳ではないとする指摘もある。

 

 

歴史ミステリー 後醍醐天皇戦う覇王

特別番組歴史人物伝「楠木正成」 竹内睦泰  山村明義 倉山満

後醍醐天皇の子孫と太平記を語る!

カリスマ日本史講師竹内睦泰さん

竹内流!誇りの持てる日本史6(南北朝時代)

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

天皇カテゴリの最新記事