歴代天皇102 後花園天皇

歴代天皇102 後花園天皇

本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代、658 年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。

応永26年(1419年)6月18日、貞成親王の第一王子として生まれた。

応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。

正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。

 

同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。

即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、同11年(1439年)6月には勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。

天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった。

嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。

文安元年(1444年)2月、同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月父貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。

長禄元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には朝廷へ返還された。ここに全ての神器が天皇の手中に帰することになる。

寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。

同5年(1464年)7月19日、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。

応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている。

この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた。

文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年53。翌3年(1471年)1月2日に高辻継長の勘申によって後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、2月19日に後花園院と改められた。

伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は、庭田経有の娘・幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。伏見宮家は持明院統の嫡流に当たる。

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