歴代天皇99・後亀山天皇

歴代天皇99・後亀山天皇

南北朝時代の南朝方最後の天皇。名は煕成 (ひろなり) 。後村上天皇の皇子。母は嘉喜門院藤原勝子。

弘和3年/永徳3年(1383年)冬に長慶天皇の譲位を受けて践祚。当時の行宮は栄山寺(奈良県五條市)であったらしい。この皇位交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって強硬派の長慶と和平派の後亀山との間で内部対立があり、最終的に和平派の台頭が契機で後亀山の即位が実現したと考えられている。

在位の9年間はちょうど南朝政権の衰退期に相当する。政令が及ぶ範囲は大和・河内・和泉・紀伊などの行宮を中心とした地方の他、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られ、将軍足利義満の下で隆盛を極める幕府との実力差は否定すべくもなかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は必至の情況となっていた。

元中9年/明徳3年(1392年)和泉・紀伊守護である大内義弘が南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して下交渉を始める。

10月には義満から吉田兼煕を通じて両朝講和のための条件提示がなされ、天皇はついにこれを受諾した(明徳の和約)。

同月28日に南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、閏10月2日に京都大覚寺に到着。同月5日に三種の神器のみが大覚寺から北朝・後小松天皇の土御門内裏に移された[5]。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。

これに伴い、南朝元号である元中は廃絶し、天皇の弟で東宮位にあった護聖院宮(惟成親王か)は事実上廃太子された。

後亀山は後年、両朝合一を決断した理由に関して、自らの運命をひとえに天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述懐している。

合一後、大覚寺を仙洞とした後亀山は「大覚寺殿」と称されて、幕府の被扶養者としての待遇に甘んじなければならなかった。

明徳5年(1394年)2月6日、天竜寺にて初めて義満と面会し、その結果、同月23日に「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇(上皇(じょうこう))の尊号を贈られた。その詔書は、延元元年/建武3年(1336年)11月2日北朝・光明天皇が南朝・後醍醐天皇(後亀山の祖父)に対して太上天皇号を贈った例に準ずるものとされたが、幕府が旧北朝と後亀山双方の体面を保つために採用した苦肉の策であった。

応永4年(1397年)11月27日、尊号および兵仗を辞退し、義満もこれを了承。その後は出家を遂げて金剛心と号し、ひたすら隠遁生活に入る。それでも、阿野実為・公為父子や六条時煕など、わずかな公家が側近として仕えており、吉田兼煕・兼敦父子が神道を進講することもあった。

ところが、同17年(1410年)11月27日突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸し、以来ここで6年を過ごしている。この事件に関して、『看聞日記』には生活上の困窮によるものとするが、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことから、そのような動静に不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。

しかし、その甲斐もなく、同19年(1412年)称光天皇が践祚。 同22年(1415年)これに反発した伊勢国司北畠満雅が蜂起するも、説成親王(後亀山の弟か)の調停によって幕府との和睦が成立したため、翌23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。

東国情勢などで不安要素を抱えていた幕府は、旧南帝を吉野の山中に放置しておくことの危険性を熟知していたので、所領回復を条件に後亀山の還御を再三要請したのである。

同31年(1424年)4月12日、雷鳴のとどろく夜に大覚寺で崩御。宝算は75とも78ともいう。後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こした。

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