歴代天皇71後三条天皇

歴代天皇71後三条天皇

在位1068-73長元7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は禎子(ていし)内親王(陽明門院)。後冷泉(ごれいぜい)天皇の死により35歳で即位。

後一条天皇の皇太弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)の第2王子として生まれる。父の即位に伴い、長元9年12月に親王宣下を受ける。異母兄・後冷泉天皇の即位にあたり、寛徳2年(1045年)1月16日、12歳で皇太弟となる。生母が藤原氏の出でない(道長の外孫ではあるが、関係は悪化していた)ため、関白藤原頼通・教通兄弟に疎んじられたが、彼らの異母弟・能信の支援を受けたと言われている。

『今鏡』によると、後朱雀天皇が尊仁親王を兄・親仁親王(後冷泉天皇)の皇太弟にと考えていたのを、頼通が抑えていたのに対し、能信が強く薦めて、その遺詔により皇太弟となる事が出来たとある。

しかし、頼通や教通は、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫を加えていた。その一例として、歴代の東宮が伝領する「壺切御剣」を頼通が「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、親王が即位するまで献上しなかった事が、大江匡房の談話集『江談抄』に記されている。

尊仁親王の祖母はともに藤原氏の摂関家出身であり、親王が即位しても摂関家以外に外戚の要件を満たす家は存在しないこと、頼通が尊仁親王の妃として後一条天皇の皇女である馨子内親王を入内させていること(馨子に皇子が誕生して皇位を継承しても、頼通と皇子の血縁関係は大伯父と姪孫の関係しか構築できないのは尊仁親王と全く同じである。ただし、実際には皇子は生まれなかった)など、尊仁親王(後三条天皇)と藤原氏(摂関家)の血縁関係を「疎遠」の一言では片付けられない側面も有している。このため、頼通らは後朱雀天皇の嫡男である後冷泉天皇の系統に皇位を一本化する意図であったとする考えもある。

しかし、後冷泉天皇は、正式な后妃との間には、ついに成長した皇子に恵まれることのないまま崩御し、尊仁親王は即位した。

頼通が失意のあまり引退した後、上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った。また、源隆国のように、東宮時代の天皇を頼通に気兼ねして蔑ろにしていた者に対しても、隆国の子息の俊明を登用する等、決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。

後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出す。1069年には画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置し、1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。

特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等(『後二条師通記』に記載有り)、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったために天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった。

また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようになる。

1072年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割となった。

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

日本最大級のお墓ポータルサイト「いいお墓」

 

天皇カテゴリの最新記事