歴代天皇51平城天皇

歴代天皇51平城天皇

桓武天皇の第1皇子。母は太政大臣藤原良継の娘乙牟漏。延暦4 (785) 年皇太子となり,大同1 (806) 年即位,在位中無用の官吏を整理し政務の簡素化をはかった。同4年病のため弟嵯峨天皇に位を譲り上皇となった。

尚侍藤原薬子を寵愛したため,その兄仲成がこれを利用して藤原氏の繁栄をはかった。仲成兄妹は弘仁1 (810) 年上皇の重祚を企てたが (→薬子の変 ) ,露見して仲成は誅に服し,薬子は毒を仰いで死んだ。上皇も薙髪し,同 12年空海から灌頂を受けた。陵墓は奈良市佐紀町の楊梅 (やまもも) 陵。

薬子の変

藤原薬子(ふじわらのくすこ)という藤原種継の娘が主役のひとりとなって発生したのが「薬子の変(くすこのへん)です。この事件は朝廷としては、かなり恥ずかしい事件でして、あまりおおっぴらにはしたくないことのひとつです。

長岡京の造営責任者は、藤原式家の藤原種継(たねつぐ)でした。(当時、藤原家は、式家、北家、南家、京家の4つの系統に分かれていました。)ところが遷都をめぐる様々な権益争いの結果、種継は785年に工事監督中に矢を射られて暗殺されてしまいます。結局、そのことの余波から桓武天皇は、長岡京を諦めて、794年に平安京に遷都します。

藤原種継の子に、藤原仲成(なかなり)と薬子(くすこ)という兄妹がいました。この2人は自分達の父が命をかけて造営した(しかも桓武天皇の命により)長岡京を、いとも簡単に放棄し、さっさと平安京に移って行った桓武天皇をあまりよく思っていなかったのは自然なことです。

薬子はその後、中納言・藤原縄主の妻となり3男2女の母となったところで、長女がまだ幼いながらも、桓武天皇の皇太子・安殿親王(あてしんのう)の妃となりました。そして母親の薬子は、その後見役として自らも入内しました。それが798年または799年。

安殿親王は妃であるはずの薬子の長女はそっちのけにして、母親で後見役として入内した薬子と愛し合うようになってしまったのです。薬子は既に結婚していたわけですから、まあ現代風に言うと、不倫ということになります。この話を聞いた桓武天皇は激怒して、薬子を宮廷から追放してしまいますこれがきっかけとなって元々親子仲が良くなかった桓武天皇と安殿親王は、溝を深めていきます。

桓武天皇が806年に亡くなると、天皇の座は皇太子である安殿親王へと移り、「平城天皇(へいぜいてんのう)」として即位しました。そして、同母弟の「賀美能親王(かみのしんのう)」を皇太子に選びました。ちなみに、この賀美能親王が後の嵯峨天皇となります。この2人は、母も同じ実の兄弟です。

平城天皇は間もなく薬子を「尚侍(ないしのかみ・天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の言上を天皇に伝える女性の役職)」に任命して宮廷に呼び戻し、再び寵愛します。またこの時、薬子の夫の藤原縄主は大宰大弐として九州へ送られました。生来病弱であった平城天皇は、薬子を呼び戻してからは、次第に彼女の言いなりになっていきました。また、妹の薬子のおかげで、兄の藤原仲成も権勢をふるうようになっていきます。

平城天皇の病気がちな状態は次第に悪化し、政務を続けることが困難になってきたため、在位わずか3年で、弟で皇太子の賀美能親王に皇位を譲り「嵯峨天皇(さがてんのう)」として即位させ、自分は生まれ故郷の平城京で療養します。

即位した嵯峨天皇は平城天皇の息子「高岳親王(たかおかしんのう)」を皇太子とし、新たに「蔵人頭(くろうどのとう)」という役職を設置します。これは内侍(ないしのかみ)と同じく、天皇の言葉を臣下に、臣下の言上を天皇に伝える男性のみの役職で、嵯峨天皇が藤原薬子を遠ざけるために打った手だと思われます。

これを聞いた平城上皇(天皇を引退して、上皇になっていました)は、地方政治の実情を調査しに北陸へ行っていた薬子の兄、藤原仲成を平安京へ呼び戻し、嵯峨天皇の動きを監視させます。ここに至って、平城上皇と嵯峨天皇の兄弟対立が生まれます。

政務を離れて療養したおかげで、平城上皇は次第に健康を取り戻し、再び政治の表舞台に立とうと考えはじめます。平城上皇の周囲には、平安京遷都によって権益を失った平城京の旧勢力がぞくぞくと集まって来始めました。こうなると当然、嵯峨天皇側も、兄の平城上皇の動きに神経を尖らせざるを得なくなり、一触即発の状況になってきます。こうした中、810年9月6日、平城上皇はついに「都を平城京に戻す」との「詔(みことのり」を出しました。もちろん嵯峨天皇には無断でした。

それに対して嵯峨天皇は、平城上皇は素早く征夷大将軍、坂上田村麻呂と藤原北家の「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」を平城京へ派遣し、平城上皇を監視させます。また平城上皇が戦の準備を進める前に平城京の周囲の関所を封鎖して、平城上皇が地方から兵を集められないようにします。9月10日、嵯峨天皇は藤原仲成を捕らえて、まずは降格処分とし、藤原薬子は内侍の役職を剥奪され平安京を追放されました。

嵯峨天皇のあまりに素早い対応に驚いた平城上皇は藤原薬子と共に手近な兵を集めていったん東国に出て再起を図ろうとしますが、嵯峨天皇はそれを阻止しようと、9月11日に藤原仲成を処刑、坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させて、平城上皇の進路を阻みました。先手を打たれた平城上皇は、やむなく平城京に戻り、自らは剃髪して仏門に入り、薬子は翌9月12日に毒薬で自殺してしまいました。これが「薬子の変」でして、こうして内乱は嵯峨天皇の一方的な勝利で終結します。

 

西暦 和暦 出来事
806 延暦25年 桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位
809 大同4年4月 平城天皇、発病。その病を「早良親王や伊予親王の祟り」と恐れ、その禍を避けるために譲位
810 大同4年12月 平城上皇、旧都・平城京へ移る(平城京北東の地に萱葺きの御所(萱の御所)を造営する)
嵯峨天皇の観察使廃止案等によって、二所朝廷といわれる対立が起こる
大同5年3月 嵯峨天皇,,、蔵人所を新たに設置
大同5年6月 嵯峨天皇,,、観察使を廃止し参議を復活(これにより平城上皇との関係悪化決定的となる)
大同5年9月6日 平城上皇、平城京遷都の詔勅を出す
嵯峨天皇、この詔に従い坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命し、平城京へ派遣する(実際は上皇側牽制が目的)
大同5年9月10日 嵯峨天皇、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁、詔によって薬子の官位を剥奪
大同5年9月11日 平城上皇、自ら薬子とともに輿にのって挙兵を目的に東国に向かう。
しかし、大和国添上郡田村まで達したとき嵯峨天皇側兵士に阻まれて断念
大同5年9月12日 平城上皇、平城京に戻り剃髮して出家。薬子は服毒自害。
大同5年9月13日 嵯峨天皇、高岳親王(平城上皇第三皇子)を廃太子し、大伴親王を立太子させる
大同5年9月19日 阿保親王(平城上皇第一皇子)、太宰府へ太宰権帥として左遷される
823 弘仁14年4月 嵯峨天皇、大伴皇太子(淳和天皇)へ譲位する
824 天長元年7月 平城上皇没(51才)、阿保親王、許され平安京へ還る
826 天長3年 阿保親王、子息の行平・業平の両名の臣籍降下を願い出て許され在原朝臣姓を賜与される
847 承和14年 「仁明天皇の勅により御殿を寺とする」(不退寺寺伝)

 

 

 

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