歴代天皇34代舒明天皇

歴代天皇34代舒明天皇

(在位629~641)の第34代天皇。田村皇子と称する。敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子を父とし、その異母妹のを糠手姫皇女を母とする。姪にあたる宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)を皇后とし、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)らが生まれる。

推古天皇の没後、その後継を巡り、田村皇子を支持する蘇我蝦夷と聖徳太子の子の山背大兄王を支持する境部摩理勢が激しく対立し、最終的に摩理勢が蝦夷らに殺され、田村皇子が即位。

順調に行けば、推古天皇の死後は聖徳太子が後を継いで改革を進展させるはずでした。しかし皇子は推古天皇より先に死んでしまいました。

このため、推古天皇の後継者として、聖徳太子の子供である山背皇子と、敏達天皇の孫である田村皇子の二人が浮上しました。しかし天皇はそのどちらを後継者とするとも決めぬまま病に倒れました。

天皇は病床にまず田村皇子を招き「天皇の仕事は大変なものである。行動を慎むこと。そして軽々しい言葉を発してはいけません」といいました。そしてその後で今度は山背皇子を呼び「お前もまだまだ若いのだから、あれこれ自分の気持ちをそのまま言ってはいけない。みんなの意見をちゃんと聞くように」といいました。そして天皇は亡くなりました。二人の皇子はそれぞれ自分が先帝から言われたことを語り、どちらも先帝は自分を後継者に指名したのだ、と主張しました。そのどちらとも取れる言葉に、群臣たちも悩み、意見はまっぷたつに分かれてしまいました。

二人の皇子はそれぞれ自分が先帝から言われたことを語り、どちらも先帝は自分を後継者に指名したのだ、と主張しました。そのどちらとも取れる言葉に、群臣たちも悩み、意見はまっぷたつに分かれてしまいました。

しかし山背皇子を強く押していた蘇我摩理勢が蘇我毛人大臣と対立して殺害されるに及び、群臣の意見は一気に田村皇子の方に流れ、この日の即位に至りました。

これは久々の、蘇我の血を引かない天皇の出現でした。しかしそれでは蘇我家は影響力を行使しにくいため、蘇我稲目の血を引く皇女・宝皇女(後の皇極天皇)を皇后に迎えることになりました。

天皇と宝皇后の間には二人の息子(後の天智天皇,天武天皇)と一人の娘(後の孝徳天皇妃)が生まれました。

在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。

『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明天皇よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に没している事や、皇子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。

 

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