歴代天皇50桓武天皇

歴代天皇50桓武天皇

天武の系統が聖武天皇の娘、孝謙天皇で絶えたあとに、天智の孫である光仁天皇が即位、桓武はその第一子です。しかし母新笠は皇族ではなく、渡来系の和氏(のち高野氏を賜る)であったために皇継とはみなされず、一度は臣下となりますが、藤原氏を巻きこんだ皇位争いによって即位されました。当時としては初老の44歳でした。

父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后・井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされている。

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政論争)。また、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。その結果として、9世紀の日本列島は無政府状態となり、結果として、日本列島は16世紀の織豊政権樹立まで、700年近い戦乱の時代に陥った。そのような状況において、有力な農民が自衛のために武装して、武士へと成長することとなった。

桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位・夫人の位までであった。

桓武天皇は即位間もなく、天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月、新笠を葬る際、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(朱蒙)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これにちなんで新笠に「天高知日之姫尊」の諡号を贈った。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また、後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信を尚侍としている。

天智派と天武派、異母兄弟だと言われている二人の家系が、100年以上対立し結果は天智派が勝利します。天智派には藤原氏もしくは渡来系が、天武派には皇族や、古来からの豪族の子孫が多い。

桓武平氏

桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。

葛原親王流
第三皇子葛原親王の流れ。
高棟王流
葛原親王長男の高棟王子孫。高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。
この流れは公家として京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上家を出した。
なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている。

善棟王流
葛原親王二男の善棟王子孫。善棟王は天長2年(825年)高棟王とともに賜姓を受けて平善棟となった。
兄弟の高棟、高見王らとは異なり、記録に残る子孫はいない。

高望王流
葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。
但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。平将門は、高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。

坂東平氏
高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏と呼ばれる。

伊勢平氏と平家
国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで滅亡した。
維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がおり、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断するまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。

平家の落人
各地に散らばって隠れ住んだ「平家の落人」の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても伊勢平氏の子孫ではなく、「平家に仕えた郎党の子孫」というべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。ただし、前述のように伊勢平氏に仕えていた郎党を他氏出身者も含めて一括して「平家」と呼んだ用例もあるため、その意味においては「平家の落人」という言葉も全くの誤りではない。
熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。
室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。
万多親王流
第九皇子万多親王の流れ。
貞観4年(862年)に正躬王の子住世王以下12名が平姓を賜姓されて臣籍に下り、その後正行王の子3名、雄風王の子2名も平姓を賜姓された。
仲野親王流
第十二皇子仲野親王の流れ。
仲野親王の子の茂世王・利世王・惟世王などが平朝臣姓を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。
賀陽親王流
第十皇子賀陽親王の流れ。
元慶2年(878年)に賀陽親王の六男利基王の子潔行王が、賜姓を受け平潔行となった。

 

 

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