歴代天皇 35代皇極天皇

歴代天皇 35代皇極天皇

皇極天皇としての在位期間は、642年2月19日(皇極天皇元年1月15日) – 645年7月12日(皇極天皇4年6月14日)。

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。

同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。

同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害した。

我氏と共にパワーバランスの双璧を為していた物部氏の滅亡(587年)それは、蘇我氏による幕府体制の成立でした。真の主君である筈の「天皇家」ではなく、「天皇の臣下」ではあるが、天皇家以上の権勢を誇る蘇我氏による政治。これはまぎれもなくプレ「幕府」体制と言える物でした。そして、蘇我氏の権力が確立した後は、天皇家と言えども、蘇我氏に逆らう事は出来なくなっていたのです。それを物語るのが、崇峻天皇の暗殺(『日本書紀』に592年とされている)、歴代天皇后妃に蘇我氏の女性がなった事なのです

蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んび蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けていた。
聖徳太子・蘇我馬子らによって編纂された『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管された。

 

乙巳の変

乙巳の変蘇我入鹿 聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)とともに朝廷の政務を執っていた、蘇我馬子率いる蘇我氏は、聖徳太子の死後、その権力を強め、天皇の人事に介入するまでになりました。蘇我蝦夷から政治権力を委譲された蘇我入鹿は、皇極天皇の次期天皇に舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子を就けようと画策しますが、反蘇我勢力は、聖徳太子の子である山背大兄王を担いで対抗します。入鹿は政敵である山背大兄王を、軍勢をもって襲撃。斑鳩宮(いかるがのみや)で、聖徳太子の一族である上宮王家を滅ぼしました。

 

中流豪族の中臣氏は,代々神官を務める職にあった。蘇我氏×物部氏の戦いでは物部氏について戦い,蘇我氏に滅ぼされている。

朝廷内での蘇我入鹿の権力に対し,中臣鎌足(鎌子)は蘇我氏打倒へと動き始めた。そのために,中国の兵法書(六韜:りくとう)の教えに従って行動したと言われている。これは「大織冠伝(たいしょくかんでん)」という鎌足の伝記に記載されている。

 

 

中臣鎌足は最初に次の皇位継承者軽皇子(かるのおうじ)と接触し,軽皇子が皇位につくよう働きたいと申し出る。しかし,器量がないと判断した。

次に目をつけたのが中大兄皇子だった。
ある時,飛鳥寺西にある槻樹之下(つきのきのもと)の広場で蹴鞠会 (けまりえ)が行われたとき,中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて革の靴を飛ばしてしまう。その様子を見ていた鎌足が皇子の靴を拾って差し出すと,皇子はひざまづいて靴を受け取った。鎌足は,まだ10代の若者中大兄皇子に,この人こそ自分の探し求めていた君主であると感じた。
鎌足は蘇我入鹿が国を乗っ取ろうとしていると中大兄皇子に語りかけた。中大兄皇子は鎌足に言った。
「入鹿は暴虐である。これをいかにしたらよいのか。どうか奇策を述べてほしい。」
「ああ皇子もそうお思いですか。それなら密かに都の東にそびえる倉橋山の一峰,あの神山に入って謀ごとをめぐらしましょう。」
(「多武峰縁起絵巻」談山神社に掲示してあるパネルより引用)

「敵の有能な臣下に協力させる。」
蘇我一族の2番目の有力者で蘇我入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)に接触した。鎌足は中大兄皇子に石川麻呂の娘を嫁がせ,石川麻呂と中大兄皇子との関係を深めさせた。

「あらゆる方法で敵を惑わす。」
蘇我入鹿を宮におびき出し,剣を持って宮に入らないようにするために,剣を預けさせてしまうような策を考えた。中大兄皇子・中臣鎌足は三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が大極殿にて天皇に調(みつき-贈り物)を捧げる儀式の最中に蘇我入鹿暗殺を実行することにした。
中大兄皇子は6月8日に蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)に石川麻呂が上表文(使者の書)を読む役であることと,読み上げ始めるときが実行の合図であることを伝えた。

蘇我石川麻呂は蘇我入鹿とともに宮廷に入る。どこへ行くにも常に剣を身につけている用心深い入鹿だったが,この日,鎌足が命じた従者(現在の芸人のような人)の演技に乗るかのように,笑って剣を預けてしまう。天皇の前には,古人大兄皇子,蘇我入鹿,蘇我石川麻呂の3人が進み出た。20mほど離れて,長槍を持った中大兄皇子(20歳),弓矢を持った中臣鎌足(32歳),2人の刺客(佐伯連子麻呂:さえきのむらじこまろ,葛城稚犬養連網田:かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)が隠れていた。石川麻呂が上表文を読み始めたら刺客が飛び出して入鹿を斬りつけ,これを中大兄皇子,中臣鎌足が援助することになっていた。宮の門を固めて準備が整う。

大極殿にて石川麻呂が上表文を読み上げ始めた。しかし,何も起こらない。この時,2人の刺客は入鹿を恐れて飛び出せなくなっていた。 次第に石川麻呂は声も体も震え,抑えることができなくなる。その様子を蘇我入鹿が見て不審に思い声をかけると,石川麻呂は「帝の前だから緊張している」とこたえた。その瞬間,柱の陰に隠れていた中大兄皇子が剣を抜いて頭から肩にかけて斬り,子麻呂が足を斬りつけ,鎌足は弓を構えた。

私に何の罪があるのか」と叫ぶ入鹿に「皇子を殺して天皇の力を衰えさせようとしている」と答える中大兄皇子,目の前で一部始終を見ていた中大兄皇子の母皇極天皇は奥に立ち去った。子麻呂と犬養連網田がさらに入鹿を斬りつけ,入鹿は息絶えた。入鹿の死体は宮の外に放り出され雨に濡れていた。

宮での事態を知った入鹿の父蝦夷は甘橿丘の邸宅にたてこもった。ここに蘇我氏と関係の深い東漢氏(やまとのあやうじ)の兵達も集結した。
正午近く,中大兄皇子や改革派の豪族達は飛鳥川を挟んで東にある飛鳥寺に入り,ここを押さえた。

6月13日,蝦夷についていた兵たちは中大兄皇子の使者巨瀬臣徳太の説得で武装解除した。こうして蝦夷は孤立した。覚悟を決めた蝦夷は,天皇記,国記などを焼き,邸宅に火をつけて自害した。

 

 

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