歴代天皇 36代孝徳天皇

[生]推古4(596)[没]白雉5(654).10.10. 摂津
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改新の事業を進めた。

 

敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。

『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が軽皇子に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。

古人大兄皇子「乙巳の変」発生で皇位に就けず、最後は異母弟に殺害される

皇極天皇の後継天皇に、大臣の蘇我入鹿(いるか)は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を擁立しようと考えた。そのため、入鹿は有力な皇位継承資格者だった山背大兄王の存在が邪魔になった。そこで643年、入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼした。これによって、聖徳太子一族の血脈は絶えた。山背大兄王の死によって、古人大兄皇子のライバルはいなくなり、蘇我本宗家に何事もなければ、すんなり古人大兄皇子が皇位に就くはずだった。ところが、対抗勢力の大胆な蘇我本宗家討滅計画が秘密裏に進められていた。蘇我本宗家という、頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退しても“魔”の手から逃れることはできず、彼は不幸にも異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのだ。

14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は壇に登って即位した。立太子は経ていない。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。

鎌足はなぜ軽皇子を擁立したのか。

中大兄皇子に接近する以前、鎌足が軽皇子に協力を求めたという経緯があったからで、蘇我氏打倒を計画していた鎌足にすれば、計画の旗頭として皇位継承候補になるような有力皇子を前面に押し立てる必要があります。その旗頭として、鎌足はまず皇極天皇の弟である軽皇子に白羽の矢を立てたのでは。

軽皇子に協力を求めるに際し、鎌足は「成功したらあなたを皇位継承者として次の天皇に擁立する」と約束しこれに対し、軽皇子も皇位への鎌足に与くみし、その寵姫を鎌足に授けるほどの信頼をみせたのでは。

 

蘇我入鹿を退治した功労者である中大兄皇子でしたが、兄と叔父をすっ飛ばして天皇になるわけにはいかないと固辞。年長者である古人大兄は、仏道に入ったから固辞。そしてついにお鉢が回ってきた軽皇子が即位。

孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。

皇極天皇即位4年6月 中大兄皇子・古市大兄と譲り合って、孝徳天皇が即位。大伴長徳連と犬上健部君が即位式で左右に立つ。中大兄が皇太子に。阿倍内麻呂臣が左大臣。蘇我倉山田石川麻呂臣が右大臣。中臣鎌子が内臣に。大化元年に定める(最初の元号)。

孝徳天皇即位1年7月 舒明天皇の娘の間人皇女を皇后に。三韓も貢調を。
即位1年8月 東国の国司に詔「戸籍を作り、税を取る。司法権は中央に。中央に来るときの従者の人数を定める。訴えがあった場合は、よく調査してから中央に報告する。兵器を集めて保管しておく」訴えの文を櫃に入れる制度。男女の法。十師を任命して、寺に所属する僧尼・奴婢・田畑を調べて報告させた。法頭を任命した。

即位1年9月 武器を集める。古人皇子が謀反。吉備笠臣垂が中大兄皇子に密告。中大兄皇子は征討させる。諸国に民の人数を記録させる。公地公民。

即位1年12月 難波長柄豊碕へ遷都。

即位2年1月 改新の詔

即位2年2月 蘇我山田石川麻呂に詔「中国の昔の賢帝に習って鐘匱の制を」。高麗・百済・任那・新羅が貢を。孝徳天皇が子代離宮から帰る。

即位2年3月 東国の国司に詔「8人を東国に送って2人が違反した」。朝廷で東国の使者に詔「役人だからって無茶苦茶しちゃいけない。例としては穂積臣咋・富制臣・巨勢臣紫檀・巨勢徳禰臣・紀麻利耆拕臣など」。中大兄皇子が入部の524口と屯倉181か所を献上。孝徳天皇の詔「葬式も古墳も質素に。古墳の大きさを身分によって規定。嘘つくな。奴婢や夫婦の規定。家の前で死んだからって穢れを祓う費用を請求するな。溺れた人を見たからと言って、知人に穢れを祓う費用を請求するな。家の前でご飯を炊いたからって穢れを祓う費用を請求するな。預けられた馬をパクるな。馬が子を産んでもパクるな。その他諸々」

即位2年8月 詔「家の名前が増えすぎた。祖先の名前で統一するように。田畑の分配方法について」

即位2年9月 新羅が人質を献上。任那の貢調をやめた。孝徳天皇は御蝦蟇行宮。越国のネズミが東に移動。

即位3年1月 朝廷で射の儀式。高麗と新羅が調賦を献上。

即位3年4月 詔「みんなが自分勝手に名前をつけて、増えすぎ」

即位3年 難波小郡を壊して宮を作る。礼法を定める。「午前4時に来て、日の出とともに仕事を。正午には帰る」。倭漢直荒田井比羅夫は水路を間違って掘って難波に引いた。労役した人が困ったので天皇が非を認めて使役をやめた。

即位3年10月 孝徳天皇は有馬温湯へ。

即位3年12月 大晦日に有馬温湯から帰り、武庫行宮に留まる。中大兄皇子の宮に火災。

即位3年 7色の13階の冠を制定。金春秋が来日。献上品を出し、金春秋が人質に。渟足柵を作る。

即位4年1月 賀正の儀式。その夕べは孝徳天皇は難波碕宮に居た。

即位4年2月 三韓に学問層を派遣。阿倍大臣が四天王寺に僧を集め、仏像を塔に設置。古い冠をやめるが左右大臣は古い冠を被る。磐舟柵を作る。

即位5年1月 賀正の儀式。冠十九階を制定。

即位5年3月 阿倍大臣が死亡。蘇我臣日向が蘇我倉山田麻呂が中大兄皇子を殺そうとしていたと讒言。蘇我倉山田麻呂を問い詰めるが答えず、孝徳天皇の前で答えると返す。蘇我興志が自殺。蘇我倉山田麻呂は殺され、関係者も多く死んだ。蘇我倉山田麻呂の没収し中大兄皇子のものとした。蘇我倉山田麻呂の潔白を知って後悔する。中大兄皇子の妻は蘇我倉山田麻呂の娘でショックのあまり死亡。讒言した蘇我日向は島流しに。

即位5年4月 巨勢徳陀古臣が左大臣。大伴長徳連が右大臣。

即位5年5月 三輪君色夫・掃部連角麻呂などを新羅へ派遣。

即位6年1月 味経宮で賀正の礼。

即位6年2月 穴戸国司の草壁連醜経が白い雉を献上。吉兆ととらえた。雉を神輿に乗せて儀式を行った。元号を白雉とする。穴戸の調役を三年免除。

即位6年4月 新羅が貢ぎ物を献上。

即位6年10月 朝廷が直轄地を得たことで墓を失った人に品を与え、荒田井直比羅夫に直轄地の標識を立てさせた。刺繍の仏を作る。漢山口直大口は千仏を作る。倭漢直県・白髮部連鐙・難波吉士胡床に安芸で百済舶を2隻作らせた。

即位7年3月 刺繍の仏などが完成。皇極天皇が仏教儀式を行う。

即位7年6月 百済と新羅が貢ぎ物を献上。

即位7年12月 味経宮で僧尼に一切経を読ませる。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮へ。

即位7年 新羅の使者の知万沙飡が唐の服を着ていた。唐に従属した証。巨勢大臣は新羅を征伐するように請願する。

即位8年1月 元旦の儀式の後、大郡宮へ。班田が終わる。

即位8年3月 難波長柄豊碕宮に帰る。

即位8年4月 恵隠を内裏に読んで無量寿経を読ませる。9日間雨が降り、被害があった。この月に戸籍を作った。新羅と百済が貢ぎ物を献上した。

即位8年9月 難波長柄豊碕宮が完成。

即位8年12月 僧尼を内裏に読んで儀式をする。

即位9年5月 大唐に吉士長丹を大使とした121人が派遣される。旻法師の病気を孝徳天皇が見舞う。

即位9年6月 百済・新羅が貢ぎ物を献上。大道を作る。旻法師が死亡。川原寺に安置。

即位9年7月 高田根麻呂の船が鹿児島の近くで座礁、水没して多くが死亡。

即位9年 中大兄皇子が孝徳天皇に大和へ都を映すように提言するが、天皇は拒否。しかし、皇子は皇極天皇・間人皇后たちと倭の飛鳥河辺行宮に移動。役人も従った。孝徳天皇は山碕に宮を作った。

即位10年1月 ネズミが大和の都へ向かった。中臣鎌足連に紫冠を授ける。

即位10年2月 高向史玄理たちが新羅経由で中国の莱州へ。高向玄理は唐で死亡。

即位10年4月 タイの吐火羅国から男2人女2人が日向に流れ着く。吉士長丹が帰国。

即位10年10月 孝徳天皇が病気になると中大兄皇子が皇極天皇・間人皇后と役人を連れて難波宮に行く。孝徳天皇が死亡。

即位10年12月 孝徳天皇を大坂磯長陵を葬る。皇太子たちは倭河辺行宮へ移動。

 

『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。

 

 

「乙巳の変」までの歩み

中臣鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、六韜(りくとう)を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、儒教を学び、そこでは蘇我入鹿とともに秀才とされていた。

628.3.7日

推古天皇は皇嫡を指名せずに没した。有力な皇位継承者は田村皇子と山背大兄王となり、最高実力者大臣・蘇我蝦夷は蝦夷の姉妹の法堤郎媛が田村皇子田村皇子の妃であった事と、二人の間の皇子(古人皇子)を皇位に就ける事を願い、田村皇子が天皇になる事を望んだ。そこで山背大兄王を推すグループのボスである蘇我一族の有力者境部摩理勢を誅滅し、強引に田村皇子を舒明天皇としたのである。 

642.1.15日

舒明天皇没後、蘇我蝦夷は再び山背大兄王を退けて、舒明天皇の皇后であった宝皇女を即位させた。当然山背大兄王と蘇我蝦夷の間には険悪な空気が流れ始めた。この様な時代背景の中、643年11月1日蘇我入鹿は山背大兄王の斑鳩宮を急襲し、王の一族を殲滅した。蘇我入鹿はこの事件により、権力の集中と皇位継承という難問を一度に解決した。つまり王は、権力集中を急ぐ蘇我氏の犠牲となったのである。

644(皇極天皇3)

日本書紀によると、中臣氏の家業であった神祗伯祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づく、同年、飛鳥寺の西の大槻の下で蹴鞠が催された時に、飛んでいった中大兄皇子の靴を鎌足が拾い上げ差し出したことで、二人は運命の出会いを果たした、と伝えられている。二人は、南淵請安(みなみぶちのじょうあん)の元で儒学を学び、その行き帰りの道すがら、打倒蘇我氏の計画を練ったとも云われている。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。三韓(高句麗・百済・新羅)進貢の日が蘇我入鹿暗殺の日と決まった。

「乙巳の変」

645(皇極天皇3).6.12日、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。

この日、蘇我入鹿は紫冠(大臣の冠)を付けて飛鳥板葺宮に入廷した。天皇が正殿に出御して進貢の儀式が始まると、中大兄皇子は宮廷の諸門の閉鎖を命じ、みずから楯を手にして宮殿の陰に身を隠し、鎌足は弓矢を取って皇子の護衛にあたった。石河麻呂が三韓の上表文を読んでいる間に子麻呂と網田が蘇我入鹿に斬りかかる手筈になっていたが、両名は入鹿の威勢に恐れをなして現れない。ついに中大兄皇子がみずから飛び出して子麻呂らと共に入鹿の頭肩と足に斬りつけた。入鹿は玉座のもとに転び行き救いを求めた。驚いた天皇は中大兄皇子にわけをただすと、中大兄皇子は入鹿が皇位を傾けようとしているとして次のように述べた。

「入鹿は、皇族を滅ぼし尽し、天皇家を倒し、国家転覆を狙っています。どうして由緒ある天皇家を蘇我に代えることなどできましょうか!」

聞き終わった天皇は玉座をおりて宮殿の奥に姿を消した。子麻呂と網田が入鹿にとどめをさした。古人大兄皇子が乙巳の変の現場に居合わせ、私邸に逃げ帰り、嘆き発した言葉です。「韓人が入鹿を殺した!胸が張り裂けそうだ!」。ここで云う韓人とは誰か。中臣鎌足と推定される。

その後、直ちに中大兄皇子は法興寺を城として立て籠もり、蘇我氏の反撃に備え、皇族・貴族の多くは中大兄皇子側についた。しかし、帰化氏族の雄「漢」氏は蘇我氏を助けようとしたが中大兄皇子の使者に説得され、武装を解いて引き上げた。孤立した蝦夷は、翌日邸宅に火を放ち自殺し、ここに蘇我氏本宗家は滅亡した。(このとき船恵尺が火中より「国記」を取り出し、中大兄皇子に献じた。)

時に、中大兄皇子は20歳、鎌足は32歳であった。蝦夷が自殺した翌日の14日、中大兄皇子の叔父の軽皇子が皇極天皇より譲位されて孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子に立った。次に阿倍内麻呂を左大臣、蘇我石河麻呂を右大臣、鎌足を内臣、僧(みん)と高向玄理を国博士に任じ、大化改新への第一歩を踏み出した。

【大化の改新】

645.6.14日、乙巳の変の翌日には皇極天皇が退位し、弟の軽皇子(天万豊日尊(あめよろずとよひ)、孝徳天皇)が即位する。安倍内麻呂臣や蘇我倉山田石川麻呂が左大臣や右大臣とされる中、鎌足も大錦の冠位をうけるとともに中臣の位と封(へひと)と呼ばれた食封も加増される。

乙巳の変から間もない9.12日、吉備笠臣垂(きびのかさおみのしだる)という人が、「古人大兄皇子が謀反を企てています。私もその仲間に加わっていたのです」と讒言し、中大兄皇子はすぐさま兵を挙げ、古人大兄皇子を攻め殺害する。

649(大化5).3月、梯麻呂・蘇我倉山田石川麻呂が死去。中大兄皇子-中臣鎌足の絶対権力が確立した。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。

 この頃、大化改新が断行される。

1・年号を大化とする。

2・大和六県(むつあがた)の造籍・校田を命じる。

3・仏教隆盛の詔を発し、十師と寺司・寺主・法頭を任命する。

4・難波長柄豊碕宮に遷都する(中国情勢・朝鮮半島情勢に的確に対応するため、軍事・外交の要地への遷都)

 大化改新の詔を発布した。

1・旧来の私地・私民をやめ、代わりに大夫に食封、以下の官人・百姓に布はくを賜る。

2・京師・畿内・国司・郡司などの地方行政組織と、駅馬・伝馬の制を定める。

3・戸籍・計帳、班田収授の法を定める。4・旧来の賦役をやめ、新しい税制を行う。

653(白稚4)年、孝徳天皇は即位に際し、都を飛鳥から大阪平野の難波に遷都していたのですが、皇太子の中大兄皇子は、孝徳天皇の姉である前帝の皇極天皇および孝徳天皇の妻・間人皇后等をひきいて、飛鳥へ都を遷してしまう。孝徳天皇は完全に孤立し難波に取り残され、怒りのうちに死んでいく。結局、孝徳天皇は、白雉五年(654年)、難波の宮で孤独な死をとげました。

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

天皇カテゴリの最新記事