歴代天皇16 仁徳天皇

歴代天皇16 仁徳天皇

応神天皇につぐ16代の天皇とされる。応神の子,履中,反正,允恭天皇の父。諱(いみな)はオホサザキ(大雀,大鷦鷯),宮は難波高津宮,陵は和泉百舌鳥耳原(もずのみみはら)中陵。天皇は幼にして聡明,壮におよび仁慈,ために〈仁徳〉と諡(おくりな)されたが,悪逆無道とされた25代武烈天皇でこの応神・仁徳の王系が途絶えるのと対比される。これは中国の易姓革命の思想によって,この王系の始祖を応神・仁徳とするための措置であろうと考えられ,応神・仁徳は同一人格とみる学説もある。

大鷦鷯は、皇太子の菟道稚郎子と皇位継承の譲り合いを行い、応神天皇の崩御(430年)のあと三年間の空位をおいて即位する。即位の年を西暦433年としたい。『宋書』倭国伝では、元嘉15年(438年)に「珍」が朝貢して上表し、「使持節 都督倭 百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称し、正式な叙爵を求めている。しかし、宋文帝は詔を以て「安東将軍、倭国王に叙爵」している。

438年は仁徳天皇の即位後であろう。『宋書』倭国伝は「珍」を「讃」の弟としている。「讃」と「珍」を兄弟としたのは、皇太子の菟道稚郎子と大鷦鷯皇子が兄弟で皇位を譲り合ったことが、宋王朝で誤って解釈されたためではないか。では、大鷦鷯天皇=仁徳天皇がなぜ「珍」とされたのか?

「讃」の死後も三年間、菟道稚郎子と大鷦鷯皇子とが皇位を譲り合った。宋王朝にとって皇位継承を譲り合うという未聞の「珍事」を経て大鷦鷯が王になったということで、「珍」と表わしたと私は考える。何れにしても宋王朝では、即位したのが、大鷦鷯でも菟道稚郎子でも、どちらでもかまわなかったのであろう。大鷦鷯皇子の誕生を応神天皇二十歳くらいとみれば、433年では二十二、三歳になり、親子でも納得できる。

仁徳二年、磐之媛を皇后とする。この皇后の三人の皇子が履中天皇、反正天皇、そして允恭天皇になる。皇后の磐之媛は悋気が強く、存命中は妃を置く事を許さなかった。なぜか? 磐之媛は神功皇后と応神天皇の時代に対新羅外交を統括した葛城襲津彦の娘であり、葛城襲津彦は武内宿禰の子である。

天皇が臣下の娘を皇后にしたのはこれが初めてである。磐之媛は悋気が強いとされているが、武内宿禰の孫であるならば、王統に邪馬台国の血統を維持することは至上命題である。それをゆるがすことになる妃を置く事を強く阻止したのだ。出自が異なる妃の子供が皇位に即く事はなんとしても回避しなければならない。けっして嫉妬心だけで、妃を置く事を嫌ったわけではない。

磐之媛は仁徳天皇との間に、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、後の履中天皇)、瑞歯別尊(みずはわけのみこと、後の反正天皇)および雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、後の允恭天皇)をもうけ、邪馬台国王統を継続させるという責務を見事にはたした。

 

仁徳元年、都を難波に遷し、高津宮といった。
仁徳四年、天皇は高台にのぼって見渡した。すると家々から炊事の煙が立上っておらず百姓は貧しい生活をしているのだと気づいた。そこで三年間年貢などを免除した。そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていた。その後三年、気候も順調で国民は豊かになった。
仁徳七年、春、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見た。それを見て天皇は喜び「自分は、すでに富んだ。憂い無し」と言った。それを耳にした皇后は、「私たちの住んでいる宮城の垣は崩れ、殿屋破れて雨漏りもしているのに、どうして富んだといわれるのか」と問うた。すると天皇は「昔の聖王は百姓の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。今、百姓が貧しいのは自分も貧しいのだ。百姓が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。未だかつて百姓が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えた。九月、諸国の百姓が天皇に「三年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れ、府庫は空になっています。国民は豊かになりました。税調をとり宮殿も修理させてください。そうしなければ罰があたります」と奏上した。それでも天皇はまだ我慢して許さなかった。

仁徳十年 冬、税調を課して宮殿を造る。百姓は命令もされないのに、老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励んだ。そのためまたたく間に宮殿ができあがった。これ故、天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめた。
この善政が、大鷦鷯天皇が「仁徳天皇」と称される所以である。

劉宋の文帝に、遣使し「使持節 都督倭 百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」とする叙爵を求めた。帝の詔を以て聞き届けられた(438年)。

仁徳十一年、夏、天皇は群臣に、大規模な農地開発のための土木工事を行う様に詔をした。冬、河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(まむたのつつみ、大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。この時、二カ所堤防が崩れて塞ぐ事が出来なかった。この時、二人を河神の人身御供にするように、神託があった。人身御供となった一人は溺れ死に、堤は塞がった。他の一人は河神の祟りを信じず、瓢箪を河に入れ「本当に河神がいるのなら瓢箪を沈めよ」といった。瓢箪は沈まずに流れ、その人は死なず、堤防は完成したというエピソードがつく。  困難な河の堤防工事に人身御供の習慣があった事がわかる。茨田堤はそれくらいの難工事であったのだろう。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
仁徳十二年、冬、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。これで百姓は毎年豊年になった。
仁徳十三年、秋、茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。茨田堤が完成したのであろう。冬、和珥池(わにのいけ、奈良市?)を造り、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築いた。
仁徳十四年、冬、灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。百姓は毎年豊年になり、凶作の心配がなくなった。この年であろうか、『記』では、難波の堀江を掘って海に通し、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)津を定めた、とある。  以前にも述べたが、大土木工事は秋とか冬の農閑期に行われている。公共事業は、農閑期の百姓に職と食を与えるためであったのだ。『記』では秦氏がこの土木工事に先進技術を持って関わったとしている。仁徳天皇が開発した墨江津は住吉津であり、のちの遣隋使や遣唐使は住吉大社に航海安全の祈りを捧げた後、この住吉津から出発した。

仁徳六十七年、冬、河内の石津原に陵地を定め、陵を築く。
仁徳八十七年、春正月、天皇崩御。冬十月、百舌鳥野陵に葬る。
仁徳天皇崩御は、『宋書』倭国伝にしたがい、443年頃としたい。即位が433年とすると、在位十年となる。とてもではないが、寿陵築造に二十年はかけられない。他方、『先代旧事本紀』は「八十三年丁卯の八月十五日、天皇は崩御された」と記す。また、履中天皇条には「八十七年春一月、仁徳天皇が崩御された」とある。弔事を統括したのは物部である。『紀』よりも『先代旧事本紀』を重要視したい。崩御年に四年の差が生じたのは、陵墓の築造期間であろう。天皇は、生前、陵地を河内の石津原に定めてはいたのであろう。天皇崩御により、全国の邪馬台国および不弥国の後裔の豪族や権力者を介して多数の人民が動員され、秦氏の技術指導のもとに陵墓を築造した

 

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