歴代天皇15 応神天皇

歴代天皇15 応神天皇

「応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 – 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。

朝鮮半島を攻めたとされている神功皇后が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのがこの応神天皇(誉田別尊:ほんだわけのみこと)と言われている。夫である仲哀天皇は、「新羅は金銀の宝庫である。」という神託を信じず崩御してしまうが、その妃である神功皇后によって朝鮮半島の制圧が企てられた。(この話自体が事実ではないとする説もある。)筑紫へ凱旋してきた神功皇后は、俄に産気づき皇子を産み落とす。この皇子が誉田別尊であり、それ故にこの地が産み(宇美)と名付けられたと言う。宇美は現在も福岡県宇美町として残っており、大分県の宇佐神宮は応神天皇を祭神とし、全国に約4万社ある八幡神宮の中心である。

養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、一大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。百済から渡来してきた学者の阿直岐(あちき)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)は「千字文」と「論語」を伝えた。職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。

阿直岐、王仁はさまざまな典籍を日本に伝え、阿直岐史(あちきのふびと)の先祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)」などの先祖にあたる。
この他日本書紀の応神紀には、前朝に引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる話、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)と大山守皇子を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。天皇は多くの皇妃を抱えており、皇后の姉、妹も妃とする。日本書紀によれば、天皇の皇子女は20人、古事記によれば26人にのぼっている。

この時期に王権を巡る大規模な戦いが近畿地方において繰り広げられたと思われる。それはおそらく、渡来人
とそれ以前の倭人達との間の争いもあっただろうし、渡来してきた渡来人同士の権力争いもあった。その中から、抜きんでて権力を確保した人物が後に「応神天皇」と呼ばれ、この地に葬られたと考えられる。

江戸時代に、この応神陵は一度発掘されているが、その際、金メッキを施した馬具が出土しており、日本最古の馬具と言う見方もある。書記にも、応神天皇が百済より馬を貰ったという記述があり、この帝は乗馬の習慣を持っていたことがうかがえるのである。

これらの事からこの応神天皇陵は、そのまま応神天皇の墓と比定してもいいのではないか、という意見が多い。またこの天皇の時代は、考古学上の画期点としても注目される。中期古墳時代を特徴づける鉄製の農具や武器が急速に普及したことが確認でき、記紀の記述を見ても、従来に比してかなりの史実性を帯びている事が見て取れるのである。天皇の異名、誉田
別皇子(ほむたわけのおうじ)も、従来のものより現実的な名前になっており、河内王朝の様相も具体性が高く、この天皇の実在についてはその可能性が高いとされている。

 

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る



天皇カテゴリの最新記事