歴代天皇 37代斉明天皇

歴代天皇 37代斉明天皇

斉明天皇 即位は62才〔重祚〕

斉明天皇は、皇極天皇に即位する前、寶皇女〈たからのひめみこ〉と呼ばれていました。父は茅渟王〈ちぬのみこ〉、母は吉備姫王〈きびつひめのみこ〉。同母弟に軽皇子〈かるのみこ〉(孝徳〈こうとく〉天皇)がいます。『日本書紀』の斉明即位前紀には、「初め用明〈ようめい〉天皇の孫高向王〈たかむくのみこ〉と結婚し」「後に舒明〈じょめい〉天皇と結婚して二男一女を生む」(現代語訳)とあります。

二男一女とは、中大兄〈なかのおおえ〉皇子(天智〈てんち〉天皇)、間人皇女〈はしひとのひめみこ〉、大海人〈おおあま〉皇子(天武〈てんむ〉天皇)がいます。

孝徳天皇へ譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図ってました。

その後、孝徳天皇は難波〈なにわ〉に遷都しますが、白雉〈はくち〉四年(六五三)、事件が起こりました。中大兄が難波から大和〈やまと〉への遷都を進言し、孝徳が拒〈こば〉むと、中大兄は皇極と間人皇后〈はしひとのきさき〉を連れて、飛鳥へ戻ってしまうのです。

難波に残った孝徳はほどなく、失意のうちに崩御しますが、中大兄が皇極と同意の上でこうした挙に出たことを見れば、前天皇の皇極が一定の影響力を持っていたことは明らかです。

 

孝徳崩御後、皇極は再び即位し、斉明天皇となります。史上初の「重祚」でした。斉明が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。この時、孝徳の子・有間〈ありま〉皇子は十六歳前後、中大兄は三十歳前後ですので即位の適齢に達しておらず、中大兄が引き続き太子として政務を執〈と〉りました。

『日本書紀』には斉明について「時に興事〈こうじ〉を好む」「溝を掘らせ、香久山〈かぐやま〉の西から石上山〈いそのかみのやま〉にまで及んだ」と大工事を行ない、「狂心〈たぶれごころ〉の渠〈みぞ〉の工事。むだな人夫を三万余り。垣〈かき〉を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗〈そし〉られたとあります。

観や両槻宮は道教の影響も考えられますが(遺跡は未発見)、苑池工事は都づくりの一環〈いっかん〉と捉えることができます。この頃になると、来朝した外国人使節に見せるために盛んに造られていた巨大古墳は影を潜〈ひそ〉め、代わって王宮〈おうきゅう〉に付随した苑池や石敷き庭園などの充実が図られていく。

大化改新以降も、唐の膨張と朝鮮半島の動揺は続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれざるを得ませんでした。一方、国内では領土拡張(=王権拡大)を狙〈ねら〉って、阿倍比羅夫〈あべのひらふ〉の北征が始まります。特に朝鮮半島と大陸に面する日本海側では、蝦夷を制圧して体制を整えておく必要があったと考えられます。

斉明六年(六六〇)、百済の使者が、百済が新羅・唐連合軍に降伏したことを伝え、さらに百済の遺臣が、日本にいる百済王子・余豊璋〈よほうしょう〉の帰国と援軍の派遣を求めました。

斉明天皇はこれを了承し、余豊璋を王位に就〈つ〉けて帰します。大和王権の百済王権への干渉であり、日本による冊封〈さくほう〉でした。一種の帝国意識の高まりをここに見出すことができます。

そして百済救援のため、斉明は自ら筑紫〈つくし〉に赴〈おもむ〉き、朝倉宮〈あさくらのみや〉で崩御しました。天皇自ら前線に赴いたところからも、百済滅亡への日本の危機感がいかに強かったかがわかります。白村江〈はくそんこう〉の戦いが起きるのは、直後のことでした。

 

656年(63才) 香久山・石上山間に石垣(狂心の渠)を造る、後飛鳥岡本宮を造る
    両槻宮・吉野宮を造る

657年 飛鳥寺西の須彌山像を作り、旦に孟蘭盆会を行ない、墓に覩貨羅を饗す。

658年 5月 孫の建皇子(8歳・天智天皇と遠智娘の子供) 死亡

658年(65才) 中大兄皇子らとともに牟婁温湯に行幸(10月)、有間皇子の乱(11月)

659年 3月 天樫丘東之川上に須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗す。

659年(66才) 牟婁温湯より帰京(1月)、吉野・近江比良に行幸(3月)

660年(67才) 阿部比羅夫、粛慎を討つ(3月)、百済の使者、百済滅亡を報せる(9月)
難波宮に移り、準備を整える(12月)

661年(68才) 百済復興のため難波を出発(1月)

朝倉橘広庭宮において崩御〔7月24日〕
即位時初めてすでに高齢であることに注目してください。30歳の中大兄皇子がいるのに、天皇になっていないのはなぜか。中大兄皇子は裏方で実際の政権を握ろうとしたような説もありますが、邪魔されたと考えるの自然だと思います。孝徳天皇が即位した時は、20歳ですから、少し早いという考えも成り立ちますが、30歳となりますと、聖徳太子は32歳で、法隆寺に引退を考えたときだと思われますから、遅いぐらいです。

 

大政に関わることすでに二五年のキャリアを持つ女帝は、決して単なる「中継役」でもなかったし、息子・中大兄皇子の操り人形でもなかった。新たに本拠として岡本宮を築き、その東の丘に両槻(ふたつき)宮という高殿を、また吉野にも宮を造った。特に両槻宮の造営に当たっては、香具山からわざわざ運河を開き、船で石材を運ばせたという。直接動員された人民は愚か、支配層からも批判と非難の声が上がったことが書紀に記されている。この怨嗟(えんさ)の声の記載も、中大兄皇子のためのものであろうか。

 

 

 

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