歴代天皇13・成務天皇

歴代天皇13・成務天皇

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 – 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 – 同60年6月11日

記紀ともに景行天皇には八十人の皇子女がいたとするが、日本武尊、五邇百城入彦とともにこの天皇も手元に残り、この3名以 外はそれぞれ国司や郡司に封ぜられたと言う。記事満載の父景行天皇と違って、この天皇の記事は記紀にはほとんどない。前帝 景行天皇の時代に、飛躍的に拡大したと考えられている国家としての領域を整備するため、この帝の治世にも中央・地方の支配 体制確立が進められ、国家としての組織が整った。中央では武内宿禰(たけのうちすくね:孝元天皇の孫で蘇我氏の始祖と言わ れる。)が大臣(おおおみ)政務を総括し、これに伴い地方制度も整備された。国県の境を定め、国造・県主を定め、地方支配 の基礎が固まったとされる。


 


武内宿禰との関係

武内宿禰が書紀で事績として登場するのは「景行天皇25年の東国視察」「同27年条の帰還と報告」「同51年条のトヨノアカリに参列せず」の三箇所で、特に最後のは実は成務天皇と行動を伴にして、「トヨノアカリの宴で皆が気を許しているときに、非常事態が起こらないとも限らないから参列しないで、防備にあたっている」という理由を述べたところ、景行天皇から誉められたとあり、「忠臣」武内宿禰の面目躍如だが、それなら皇太子であるワカタラシヒコ(成務)は参列させて、武内だけが警備に当たっていれば済むことではないか。
また古事記には見えないが、成務天皇と誕生日が同じでそのために大臣として寵遇されたという風にも記す。
以上から、ワカタラシヒコ(成務)は武内宿禰の分身と考えてもいいように思える。分身といってもはじめにワカタラシがいて、あとで武内が分出されたのではなく、その反対である。「景行紀」の3年条で、同じ日に生まれたはずのワカタラシには触れもせずに武内宿禰の誕生のみを書いているのも、そう考える根拠となる。
武内の母は記紀のどちらも「紀氏系のウズヒコの娘・カゲヒメ」だから、南九州とのつながりも十分考えられる。
語源的にも「武」は「武(建)日」(南九州熊曽国=古事記・国生みの段)から、「内(うち)」は「ウツ」との変換も範囲のうちとすれば、これまた南九州に多い「宇都」(ウツと読むべきだが、南九州では一般にウトと呼び習わしている)が引き当てられる。さらに宿禰は『先代旧事本紀』に見える「足尼(すくね)」という使用例から「足」すなわち「タラシ」を当てれば「タラシネ」となり、けっして一般論の「すくね=少な兄(え)=大兄(おおえ)の対概念」とのみ捉えられるものではないことが分かる(第一、武内宿禰の宿禰がもし「少な兄」なら、武内に「大兄」がいたことになるが、そのような記事は無いのだから)。
つまり武内宿禰とは「南九州熊曽国のウツマ(完全なる土地)に根を下ろした人物」と考えていいように思われる。このことは次代の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の事績においてまた指摘し、考察を続けたい。

国郡の造長・県邑の稲置・・・古事記では「国造」「県主」とおなじみの単語で記している。国郡の造長は「国造」を連想させるが、県邑の「稲置」(イナキ)は「県主(あがたぬし)」とは似ても似つかない。
『随書』の「倭国伝」には、開皇20年(600年)のこととして、「軍尼(クニ)、120人あり。中国の牧宰(知事)のごとし。80戸に一伊尼翼(イニキ)を置く。今の(中国の)里長の如し」との記述があり、国(軍尼)造120人の下部組織として、80戸ごとに「稲置」が置かれていたと見えるので、あるいは「稲置」の設置の方が古いのではないかと思えるが、稲置系の地域(たとえば九州)と県主系の地域(たとえば近畿)とが同時に並立して存在していたとも考えられる。

 

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