歴代天皇22清寧天皇

歴代天皇22清寧天皇

白髪武広押国稚日本根子天皇(しらかのたけひろおしわかやまとねこのすめらみこと:日本書紀)、
白髪大倭根子命(しらがのおおやまとねこのみこと:古事記)

白髪皇子とも言う。
生没年: 允恭天皇33年 ~ 清寧天皇5年 41歳
在位期間  雄略天皇23年(清寧天皇元年) ~ 清寧天皇5年
父: 雄略天皇 第三子。
母: 葛城韓姫(かつらぎのからひめ:葛城円大臣の娘)
皇后: なし
皇妃: なし
皇子皇女: なし
宮: 磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや:奈良県櫻井市池之内)
陵墓: 河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ:大阪府羽曳野市西浦)

 

飯豊天皇陵

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。
白髪大倭根子命は磐余の甕栗(みかくり)に宮殿を造営し、ここで正式に即位する。そして大伴室屋大連、東漢掬直らを従来通り重臣として治世を行う。これが、日本書紀に記された清寧天皇即位時の状況である。

子供の無かった清寧天皇は皇統の絶えるのを恐れ、父雄略が殺害した市辺押磐皇子の皇子たちが播磨の国に居るのを聞いて部下たちに捜索を命じる。そして久米部小楯(くめべのこたて)に発見された二人の皇子を皇太子にするのである。この、赤石郡(明石市付近)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしみべのみやっこほそめ)の家に寄宿していた履中天皇の孫、億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、次代の顕宗天皇、仁賢天皇となる。

父の犯した罪に対する贖罪なのか、それとも皇位継承のためなら仕方がないと割りきっていたのか。古代天皇家の王位を巡る殺戮や、近親相姦にも近い血脈の乱れは、その一方で血族の強い結びつきをも生んでいたのかもしれない。

崩御した清寧天皇は、河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)に葬られた。崩御から顕宗天皇の即位の間には空白があり、またこの二人の皇子は互いに皇位を譲り合ってなかなか即位しなかったとされている。そこで、一時的に彼らの姉である飯豊青皇女(いいとよのあおひめ:市辺押磐皇子の娘)が皇位に就いたという説もある。古事記によると、「故に、天皇崩りましし後、天の下しろしめすべき王なかりき。ここに日継知ろしめす王を問うに、市辺忍歯別(いちべおしはわけ)王の妹、忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、またの名は飯豊王、葛城の忍海(おしぬみ)の高木の角刺(つのさし)宮に坐しき」 。また、日本書紀によると、「飯豊青の皇女、忍海の角刺宮に、みかどまつりごとしたまい・・・・・」 とあって、飯豊皇女が女帝として皇位に就いたと思われる記述が見られる。
後世の「扶桑略記」や「大鏡」などは飯豊青皇女を女帝と見なしているが、その後の文献には出現しないようである。飯豊青皇女は忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや:奈良県北葛城郡新庄町忍海)で政務を執ったので、忍海郎女、忍海部女王などとも呼ばれる。
『古事記』によれば、億計・弘計王の姉ではなくて叔母だった(市辺忍歯別王の妹)とされていて、二王の発見は皇女の託宣によるものとなっている。

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

天皇カテゴリの最新記事