歴代天皇 28代宣化天皇

歴代天皇 28代宣化天皇

第 28代に数えられる天皇。名はタケオヒロクニオシタテノミコト。継体天皇の第3皇子。母は尾張連草香の娘,目子媛 (めのこひめ) 。

大和檜隈廬入野宮に都し,仁賢天皇の娘橘仲皇女を皇后とした。その在位期間中,蘇我稲目が大臣となり,蘇我氏専権の基をなした。諸国の屯倉 (みやけ) の稲を運んで非常時にそなえさせ,使臣をつかわして任那,百済を助けたと伝えられる。陵墓は奈良県橿原市の身狭桃花鳥坂上陵 (むさのつきかとりさかのへのみささぎ) 。

尾張目子媛の「尾張」の語源ですが、志賀 剛著「神名の語源辞典」によりますと、「尾は丘」、「張(はり)は墾(はる)で開墾した所」で「尾張は開墾して切り開いた丘」とあります。
そう言えば大和の高鴨、高尾張もそのような地形になっています。33代推古天皇(554年~628年)の小墾田宮(おはりだのみや、小治田宮)もあります。
私見ですが、原(はら)も墾(はる)が語源でしょう。はる(墾る)→はら(原)となったのでしょう。九州の原(はる、ばる)も「墾る」だと思います。違う説もありますがね。「奈良」は「平らに均す(ならす)」が語源だという説があります。

宣化天皇は536年に那の津(博多)に官家(みやけ)を建て、筑紫国・肥国・豊国の三国の屯倉(みやけ)から穀物を集め、非常に備えて民の命を守らせる。この年、物部麁鹿火大連が亡くなる。
537年に新羅が任那と百済に害を加えるので、宣化天皇は大伴金村大連の子・狭手彦に助けさせた。しかし、任那は562年(29代欽明天皇の時代)に新羅に滅ぼされる。欽明天皇の任那奪還の夢は遂に実現しなかった。
蘇我氏の台頭により大伴氏の勢力が衰退し始め、大伴金村大連の任那政策失敗で大伴氏は衰退した。大伴家持(718年頃~785年)の時代になると、万葉集や小倉百人一首で敗者の立場をも採り上げた。

宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)

奈良県橿原市鳥屋町にある前方後円墳で、全長138m、径83m、高さ18mの二段築成。土器の年代から5世紀末~6世紀初めの築造と推定されています。宣化天皇は539年崩御ですから時代が少しだけずれていると考えられます。造り出しと盾形周濠があり、周濠の東側は灌漑用の鳥屋池と繋がっています。
ミサンザイとは御陵(みささぎ)が訛ったもので、ミサンザイと呼ばれる古墳は他にもあるため地名を付けて呼んでいます。
日本書紀に539年崩御、身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)に葬ったとあり、先に崩じていた皇后・橘仲媛を合葬しています。

蘇我氏の領地は明日香と桧前(ひのくま、檜隈)で、当地には蘇我氏と関係の深い28代宣化天皇陵、29代欽明天皇陵、見瀬丸山古墳があります。大伴氏の領域が蘇我氏に侵食されたのかもしれません。
宣化天皇陵のすぐ南に桝山古墳(10代祟神天皇の第三皇子・倭彦命)があり、大規模な方墳ですが幕末に前方後円墳に改修されてしまいました。西隣は新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群があり、600基以上の墳墓群になっています。
欽明天皇については2013年2月28日(木)投稿の記事をご覧ください。私見ですが、欽明天皇陵の少し北にある見瀬丸山古墳は蘇我稲目の墓と見ています。
緑の矢印が宣化天皇の宮(於美阿志神社)、オレンジが欽明天皇陵、赤が見瀬丸山古墳、ピンクが倭彦命墓、白が宣化天皇陵、黄が新沢千塚古墳群

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