歴代天皇11・ 垂仁天皇

歴代天皇11・ 垂仁天皇

垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 – 垂仁天皇99年7月14日)

第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 – 垂仁天皇99年7月14日)

父は崇神(すじん)天皇。母は御間城姫(みまきひめ)。「日本書紀」によると,都は纏向(まきむく)の珠城(たまきの)宮。伊勢(いせ)に斎宮をたて,殉死を禁止して埴輪(はにわ)に代えさせ,農業のために池や溝800余をつくり,田道間守(たじまもり)に不老長寿の非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)(橘)をもとめさせたという。垂仁天皇99年7月1日死去。140歳。墓所は菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)(奈良市)。別名は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)。

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「宝来山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

系譜

崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。

  • 皇后(前):狭穂姫命(彦坐王の女)。垂仁天皇5年に焼死したとされる
    • 誉津別命
  • 皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女)
    • 五十瓊敷入彦命
    • 大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
    • 大中姫命(おおなかつひめのみこと、『古事記』には大中津日子命)
    • 倭姫命。初代斎宮
    • 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
  • 妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
    • 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)。和気氏の祖
    • 胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
  • 妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
  • 妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
    • 息速別命
    • 稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
  • 妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女)。かぐや姫のモデル?
    • 袁那弁王(おなべのみこ、『古事記』のみ)
  • 妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
    • 磐衝別命。三尾氏の祖
    • 両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命)。日本武尊の妃、仲哀天皇の母
  • 妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)。弟苅羽田刀弁の姉
    • 祖別命(おおちわけのみこと、落別王・於知別命・意知別命)。伊賀国造・小槻氏の祖
    • 五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)。石田君らの祖。
    • 胆武別命(伊登志別王)
  • 母親未詳
    • 円目王(『令集解』に見える)

初期大和政権の第二代目、垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)は記紀が記すところによると、丹波・出雲など北近畿および山陰地方との関係が極めて濃密である。垂仁の父とされる崇神(ミマキイリヒコイニエ)が全面的に大和の色彩に包まれているのに対して、それは、くっきりと異なる色彩である。ことによると、崇神と垂仁とは親子ではなく、両者は別系統ではないか。そして、垂仁は丹波出自の説がある。

 記紀が記す崇神朝の出来事は大和一国内に限られている。大物主神や倭大国魂を祀る話は大和の中での事であり、豊鋤入姫に祭らせた天照大神も笠縫の邑に祭壇を設けるところまでであり、伊勢には遷っていない。何よりも九年の条に墨坂の神と大坂の神を祭ったと述べていることが、崇神の勢力範囲が基本的には大和一国であったことを示している。墨坂は宇陀郡にあり、東から大和へ入る境界の坂である。大坂は北葛城郡にあり、二上山の北麓を西から大和に入る境界の坂である。崇神は東西の境界に塞の神を祀って、外敵が大和に侵入することを防ごうとしているのである。
 とは云え、崇神紀も大和の外部に関わる記事が皆無ではなく、次の三つがある。
     ①十年の四道将軍派遣、
     ②十年の武埴安彦および吾田媛の誅殺、
     ③六十年の出雲神宝検校、
 まず、四道将軍の派遣については、そこに戦闘記事などが全くないことなどから見ても、事実ではないとするのが一般である。次の武埴安彦・吾田媛の大和侵攻は史実性が高いが、外部から攻められたもので、大和の方から膨張を図ったものではない。第三の出雲神宝検校は後に論証するように、次の垂仁朝の出来事の投影と思われる。
 このように、崇神の勢力は全く大和一国内にとどまっている。ところが、垂仁紀は俄然として丹波・出雲を中心とした大和国外に関わる記事で満たされる。その変化はきわめて不連続的であり、そこには急峻な断層がある。これを一つの王朝の連続した発展段階と見るのは不自然さをまぬかれない。垂仁と崇神とは別系統であると見た方が、むしろ自然であるように思われる。
崇神は母も、また、父の母もすべて物部系の女性である。当時は妻問婚の時代であり、子は母の家で生まれ母の家で育つため、父の系統よりも母の系統の方を優先的に意識する時代であった。この意味において崇神は物部系の人物である。ところで、この物部氏は大和の哮峰に降臨したとされる饒速日命を祖とする一族であり、大和・河内を本拠とする一族である。こうして崇神はその出自においても大和限定性を持っている。
日本書紀の垂仁紀は帝紀の部分続いて、まず二年の条にツヌガアラシトが任那の大加羅から来朝したことを記し、続いて三年の条に天日槍(あめのひぼこ)が新羅から渡来したことを述べている。 ここに、ツヌガアラシトは敦賀の気比神社の神である。そして、敦賀は近江の坂田郡を中心にして蟠居した息長(おきなが)一族の外港である。後年、オキナガタラシヒメ(神功皇后)はこの敦賀から船路で長門へ向かった。他方、天日槍は但馬の出石に鎮座する出石神社の神である。
 このように、垂仁紀が冒頭部分に但馬・若狭・北近江の部族たちの始祖伝承を置いていることは、それなりに意味を持つことと考えねばなるまい。これは垂仁がこれら地域と深い関係を持っていることを示すものであり、ことによると、垂仁がこれらの地方の出身であると暗示するとも見られるのである。
 それのみならず、日本書紀の垂仁紀は、その最後の所で、但馬が天日槍の神宝を朝廷に奉献したことを述べ、さらに、念を入れるように、天日槍の末裔で但馬の王たる田道間守(たじまもり)が十年間も常世(とこよ)の国を訪ね歩いて、やっと「ときじくの香ぐの木の実」を手に入れて持ち帰り天皇に奉献する物語を記して垂仁紀を閉じている。古事記もまた垂仁の段を同じようにこの話で閉じている。いよいよもって、垂仁が北近畿地域と深い関係を持っていることを示すものである。
当時、日本列島の表玄関は日本海側であった。中国大陸や朝鮮半島からの新しい技術や製品は、ほとんどが、日本海岸に連なる潟湖が形成した港を経て、列島に入ってきた。このために日本海沿岸には、いわゆる地域王国が幾つも出現した。筑紫、出雲、丹波、古志などである。
 丹波地域は、網野銚子山・神明山など200米級の大古墳を持ち、魏の青龍三年銘の鏡や後漢の神獣鏡を出土した大田南古墳群、ガラス製や碧玉製の管玉や勾玉が大量に現れた峰山町の赤阪今井・加悦町の日吉ガ丘などの墳丘墓。更には、古代製鉄コンビナートの姿を示した弥栄町の遠所製鉄遺跡などなど、耳目を驚かすもので満ちている。そこには、海の外との交易を語る浦島伝説や羽衣伝説などがある。
 これらは、製鉄・鉄製品加工とガラス・水晶・玉などの加工、それらの製品の半島や大陸との自由な交易を経済的基盤とする王国を想定させると云う。この王国は、天火明神を祖神とし、大宮売神社に鎮座する大宮売の女神を国土の神とする。
 こうした丹波王国は大和一国に崇神が築いたヤマト王国などよりも、圧倒的な経済力を持ち、従って、ヤマトより軍事的にも遙かに優位でった筈である。弱小なヤマトが強大な丹波を併呑したなどと云うことは考え難い。その逆のみが考え方として可能である。

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

天皇カテゴリの最新記事