歴代天皇45 聖武天皇

歴代天皇45 聖武天皇

文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。諱は首。和銅7(714)年皇太子となる。

2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、グレゴリオ暦では6月8日となるが、約140年間にわたり1日前の6月7日に祭祀を行っていたことになる。後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。

文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。

初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。

長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。

天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。

天平八年(736)葛城(かつらぎ)王(おう)を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰(たちばなすくね)の姓を祝う宴が開かれた。

葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母県(あがた)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。

 

乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京難波京紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。

また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。

天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。

天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。

年号
西暦 
月日
 記 事 
大宝元年 701 聖武天皇はこの年、藤原京において「文武天皇」と宮子(藤原不比等の娘)との間の第一皇子として誕生。
和銅3年 710 3/10 元明天皇の御代、藤原京から平城京へ遷都。
霊亀2年 716 首皇子(聖武天皇)、16歳で藤原不比等の娘(母は橘宿禰三千代)安宿媛(後の光明皇后)を妻とする。
神亀元年 724 2/4 元正天皇より譲位されて第45代聖武天皇として即位。24歳。長屋王を左大臣とする。
天平12年 740 2/7 難波宮行幸。この月、河内国大県郡智識寺(知識寺)に行幸し、盧舎那仏像を礼す。
9/2 藤原広嗣、九州で兵を起こす。(藤原広嗣の乱)
10/29 伊勢国へ行幸。
12/10 伊勢国へ行幸。
12/14 伊勢より美濃国を経て山城玉井頓宮に至る。
12/15 恭仁宮に行幸して都を作らせる。
天平13年 741 2/24 国分寺・国分尼寺建立の詔を発す。
閏3/9 平城京の兵器を甕原宮に運ばせる。
8/28 平城の東西二市を恭仁京へ移す
天平14年 742 8/12 山城国石原宮に行幸す
8/27 近江国信楽(紫香楽)宮に行幸す。
9/4 恭仁京に戻る。
12/29 信楽(紫香楽)宮行幸。
天平15年 743 1/1 橘諸兄を恭仁京に還らしめ、2日天皇も帰京。
4/3 信楽(紫香楽)宮行幸。
7/3 石原宮行幸。
7/26 信楽(紫香楽)宮行幸。
10/15 盧舎那仏造顕の詔を発す。
11/2 恭仁京へ戻る。
12/24 平城京の武具等を恭仁京に移す。
12/26 平城京の大極殿等を恭仁京に移すが、信楽(紫香楽)宮造営により恭仁京の造作を停止。
天平16年 744 閏1/1 臣下を召して、恭仁・難波二京のうち何れを都とすべきかを問う。
閏1/11 難波宮行幸。
2/10 和泉宮行幸。
2/20 恭仁宮の御高座などを難波宮に移す。
2/22 河内国安曇江に行幸。
2/24 信楽(紫香楽)宮に行幸。
2/26 難波宮を皇都と定める。
3/11 恭仁京の大楯・槍を難波宮に運ぶ。
4/13 信楽(紫香楽)宮の山火事。
天平17年 745 1/1 信楽(紫香楽)宮に遷都、しかし信楽(紫香楽)宮未だ成らず。
4/1 信楽(紫香楽)京の市の西の山燃える。
4/3 信楽(紫香楽)京の市の東の山燃える。
4/8 伊賀の国の真木山燃ゆ。3~4日消えず。
4/11 宮城の東山に火事。聖武天皇も避難する。
4/27 この夜、地震、三日三晩に及ぶという。美濃国、被害甚大。
5/3 恭仁京を清掃。
5/5 聖武天皇、信楽(紫香楽)宮より恭仁宮に還る。民衆歓呼してこれを迎う。
5/7 恭仁京を清掃。
5/10 恭仁京の民、競って平城京に移る。信楽(紫香楽)京に人無く火未だ消えず。
5/11 平城京に行幸。諸司の官人、各々もとの司に帰る。
8/28 難波宮行幸。
9/17 難波宮にて病を得る。
9/25 平城京に向かい、26日宮に入る。
12/15 恭仁京の兵器を平城京に運ぶ。
天平18年 746 10/6 聖武天皇・光明皇后等、金鐘寺に行幸して燃燈供養を厳修。
天平19年 747 9/29 この日より盧舎那大仏像を鋳はじめんとす。
天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年 749 1/14 聖武天皇、光明皇后ら菩薩戒を受け出家す。
2/22 陸奥国より始めて黄金を貢(たてまつ)る。
4/1 東大寺に行幸し左大臣橘諸兄をして陸奥国の産金を盧舎那大仏に告げさしむ

 

 

恭仁京

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