歴代天皇124 昭和天皇

歴代天皇124 昭和天皇

歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)最も長寿(宝算87)である。

大日本帝国憲法が規定する「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」する立憲君主制における天皇として日本の降伏において連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに大きく関与した。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴かつ日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。

またヒドロ虫(ヒドロゾア)・変形菌(粘菌)などを研究する生物学研究者でもあった。

1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)と皇太子妃・節子(後に立后して貞明皇后)の第一男子(後に、第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生。

旧高輪御殿1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。大正と改元された後の同年(大正元年)9月9日、皇族身位令の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任。

1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。

1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、貴族院皇族議員となった。

1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪。

1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世(現在のエリザベス2世女王の祖父)から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。同年11月25日、20歳で摂政に就任し摂政宮(せっしょうみや)と称した。

1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、良子女王と結婚した。

1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で樺太を視察。10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子・照宮成子内親王(後の盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生。

1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、昭和と改元。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生。

1928年(昭和3年)3月8日、久宮祐子内親王が薨去。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。11月14日・15日、京都御所に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社親拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(後の鷹司和子)が誕生した。

1931年(昭和6年)1月、宮内省(現:宮内庁)・文部省(現:文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。

3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(後の池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。

犯人は、大韓民国臨時政府が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって派遣された朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)であった。

李は昭和天皇が観兵式に臨席することを新聞で知り、犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使って観兵式の警戒網を突破したが、精神的動揺のために襲撃に失敗したものであった。

1933年(昭和8年)12月23日、自身の五人目の子にして待望の第一皇子・継宮明仁親王(現:今上天皇)が誕生し、歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝の溥儀(清朝最後の皇帝)を東京駅に迎える。

11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生した。

1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生する。

1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、太平洋戦争(開戦4日後の同年12月12日の閣議決定による当時の呼称:大東亜戦争)が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月31日には御前会議を開いた。

 

大東亜共栄圏1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に良子皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定。

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の無条件受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。

9月27日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため、駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また同年には、神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。

象徴天皇

全国巡幸1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。1946年(昭和21年)11月3日、大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正するということを示す裁可とその公布文である上諭により、日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。

6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。

1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男・皇太子明仁親王への譲位、当時まだ年齢的にも幼く未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟の秩父宮雍仁親王は結核を患い病弱状態にあったため、次弟の高松宮宣仁親王が摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、自身の祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。

宮中晩餐会で乾杯する昭和天皇と英国のエリザベス女王1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。1975年(昭和50年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として、東京都・立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日、同日は平成期における国民の祝日の一つ、天皇誕生日、旧:天長節)から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。

1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され[注釈 5]、神代を除く歴代天皇で最長の在位期間を記録した。

1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中に嘔吐症状で中座する。その後同年8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著に。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。

しかし1988年(昭和63年)になると、体重はさらに激減。同年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。同年9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。

同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止に。その翌9月19日の午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミ陣はこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道され、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった。

十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)のため長く療養していたが、1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御。宝算87。神代を除く歴代の天皇で最も長寿。同日午前7時55分に宮内庁長官・藤森昭一と内閣官房長官・小渕恵三(後の内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表。その直後、内閣総理大臣・竹下登(当時)が「大行天皇[注釈 7]崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表。

1989年(平成元年)1月31日、今上天皇(明仁)が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号した[8]。2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点余りが、副葬品として共に納められたとされる。

満州某重大事件

満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。

田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。

この事件で、天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。

なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。

昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史は「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」と論じている。

二・二六事件

二・二六事件936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる。このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。

この時の発言について、後の1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男・皇太子明仁親王(後、平成期の今上天皇)が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により任官を取り止めさせている。また、長男皇太子の教育係として陸軍の軍人を就けることを特に拒否している。

なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者といわれることもある真崎甚三郎の息子で外務省や宮内庁での勤務経歴もある真崎秀樹が昭和天皇の通訳を務めた。

大東亜戦争

1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。

御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製である

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)
という短歌を詠み上げた。

また米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告の中の「豈朕カ志ナラムヤ」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。

なお、対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領より直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた。

しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。

元大日本帝国陸軍参謀本部通信課・戸村盛男は「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。

それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」と後に証言している。こうして、親電が肝心の天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。

『昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は開戦には「消極的」であったといわれている。

ただし、『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。

対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。

日本共産党中央委員長も務めた田中清玄は、後に転向して「天皇制(皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。

敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(後の一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。

それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ。」と回答している。

開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、太平洋のアメリカ西海岸沿岸からインド洋のマダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。

この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示等もしている。

有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受け敗北を喫した例がある。

また、昭和天皇はときに、軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。

これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。その時の理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。

これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引く上に、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。

しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。

このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣、小磯國昭首相)の召集を勧めている。準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった。

その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた元首相近衛文麿の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は、「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。

長崎に原子爆弾が投下された8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。

昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。

マッカーサーと天皇イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇はGHQ総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた。

人間宣言

人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年(昭和21年)1月1日に日本国政府の官報により発布された昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』(しんねんニあたリちかいヲあらたニシテこくうんヲひらカントほっスこくみんハちんトこころヲいつニシテこノたいぎょうヲじょうじゅセンコトヲこいねがフ)の通称である。

当該詔書の後半部には「天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定した」と解釈される部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。

なお、「人間宣言」という名称は当時の日本のマスコミや出版社が名付けたもので、当詔書内には「人間」「宣言」という文言は一切ない。

 

「日本の民主主義は日本に元々あった『五箇条の御誓文』に基づいていること」を示すのが、詔書の主な目的だった。

「人間宣言」については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ— 『新日本建設に関する詔書』より抜粋

 

このGHQ主導による詔書により、「天皇が神であることが否定された」とされる。しかし、「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。

戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥という立場を非常に強調していた。

ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。

さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制(皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「朕」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「私」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。

昭和天皇への発言

1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー
[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか
[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。

1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー
[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?
[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。

1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見
[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。
[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。

1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?(昭和天皇の戦争責任論も参照)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。

[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。

1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見
[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。

 

 

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