皇統一覧(歴代天皇)

皇統一覧(歴代天皇)

皇統一覧(歴代天皇一覧)

皇統とは、皇位継承が代々なされてきた系統のことである。これは、「初代の神武天皇から皇位継承されてきた系統」と言い換えることができる。いずれの天皇・皇族(后妃を除く)も、系図の上で父系を辿れば、必ず神武天皇へ辿り着く。

皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされている。

日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる。

王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。

彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。
— ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している

彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。— ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)

エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している。

“宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。
— エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

 

1代   神武天皇   (じんむ)

2代   綏靖天皇 (すいぜい)

3代   安寧天皇 (あんねい)

4代   懿徳天皇 (いとく)

5代   考昭天皇  (こうしょう)

6代   考安天皇 (こうあん)

7代   考霊天皇 (こうれい)

8代   考元天皇 (こうげん)

9代   開化天皇 (かいか)

10代  崇神天皇 (すうじん)

11代  垂仁天皇  (すいにん)

12代  景行天皇  (けいこう)

13代  成務天皇 (せいむ)

14代  仲哀天皇 (ちゅうあい)

15代  応神天皇 (おうじん)

16代  仁徳天皇 (にんとく)

17代  履中天皇 (りちゅう)

18代  反正天皇 (はんぜい)

19代  允恭天皇 (いんぎょう)

20代  安康天皇 (あんこう)

21代  雄略天皇 (ゆうりゃく)

22代  清寧天皇 (せいねい)

23代  顕宗天皇 (けんそう)

24代  仁賢天皇 (にんけん)

25代  武烈天皇 (ぶれつ)

26代  継体天皇 (けいたい) 皇紀1167-1191 西暦507-531

27代  安閑天皇 (あんかん) 皇紀1191-1195 西暦531-535

28代  宣化天皇 (せんか) 皇紀1195-1199 西暦535-359

29代  欽明天皇 (きんめい) 皇紀1199-1231 西暦539-571

30代  敏達天皇 (びたつ) 皇紀1232-1245 西暦572-585

31代  用明天皇 (ようめい) 皇紀1245-1247 西暦585-587

32代  崇峻天皇 (すいしゅん) 皇紀1247-1252 西暦587-592

33代  推古天皇 (すいこ) 皇紀1252-1288 西暦592-628

34代  舒明天皇 (じょめい) 皇紀1289-1301 西暦629-641

35代  皇極天皇 (こうぎょく) 皇紀1302-1305 西暦642-645

36代  考徳天皇 (こうとく) 皇紀1305-1314 西暦645-654

37代  斉明天皇 (さいめい) 皇紀1315-1321 西暦655-661

38代  天智天皇 (てんじ) 皇紀1321-1331 西暦661-671

39代  弘文天皇 (こうぶん) 皇紀1331-1332 西暦671-672

40代  天武天皇 (てんむ) 皇紀1332-1346 西暦672-686

41代  持統天皇 (じとう) 皇紀1346-1357 西暦686-697

42代  文武天皇 (もんぶ) 皇紀1357-1367 西暦697-707

43代  元明天皇 (げんめい) 皇紀1367-1375 西暦707-715

44代  元正天皇 (げんしょう) 皇紀1375-1384 西暦715-724

45代  聖武天皇 (しょうむ) 皇紀1384-1409 西暦724-749

46代  考謙天皇 (こうけん) 皇紀1409-1418 西暦749-758

47代  淳仁天皇 (じゅんにん) 皇紀1418-1424 西暦758-764

48代  称徳天皇 (しょうとく) 皇紀1424-1430 西暦764-770

49代  光仁天皇 (こうにん) 皇紀1430-1441 西暦770-781

50代  桓武天皇 (かんむ) 皇紀1441-1466 西暦781-806

51代  平城天皇 (へいぜい) 皇紀1466-1469 西暦806-809

52代  嵯峨天皇 (さが) 皇紀1469-1483 西暦809-823

53代  淳和天皇 (じゅんな) 皇紀1483-1493 西暦823-833

54代  仁明天皇 (にんみょう) 皇紀1493-1510 西暦833-850

55代  文徳天皇 (もんとく) 皇紀1510-1518 西暦850-858

嵯峨天皇の第二皇子。823年叔父にあたる淳和天皇の皇太子となり、833年淳和天皇の譲位を受け即位した。
皇太子には淳和天皇の子の恒貞親王たてたが、842年の嵯峨上皇の没後、春宮坊帯刀伴健岑・但馬権守橘逸勢が皇太子の恒貞親王を擁し謀反を企て東国で挙兵するとの密書が暴露され、伴健岑・橘逸勢は配流。

皇太子の恒貞親王は廃太子となった(承和の変)。
後に皇太子には仁明天皇と大納言藤原良房の妹藤原順子との間の子道康親王(後の文徳天皇)を後継に立てた。

56代  清和天皇 (せいわ) 皇紀1518-1536 西暦858-876

文徳(もんとく)天皇の皇子で,母は藤原良房の女明子(めいし)。858年9歳で即位し,876年まで在位。その間,外祖父良房が摂政となり人臣摂政の例を開いて藤原氏の全盛期が始まった。在位中貞観格式(じょうがんきゃくしき)が作られた。また孫の経基(つねもと)に源氏の姓を与え,清和源氏が起こった。

57代  陽成天皇 (ようぜい) 皇紀1536-1544 西暦876-884

58代  光考天皇 (こうこう) 皇紀1544-1547 西暦884-887

59代  宇多天皇 (うだ) 皇紀1547-1557 西暦887-897

60代  醍醐天皇 (だいご) 皇紀1557-1590 西暦897-930

61代  朱雀天皇 (すざく) 皇紀1590-1606 西暦930-946

62代  村上天皇 (むらかみ) 皇紀1606-1627 西暦946-967

第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、誕生の同年11月親王宣下。天慶3年(940年)2月、元服。三品に叙され、上野太守、大宰帥を経る。天慶7年(944年)4月22日に皇太子(皇太弟)となり、2年後の天慶9年4月20日に朱雀天皇の譲位により践祚、4月28日に即位。

先代に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。

63代  冷泉天皇 (れいぜい)  皇紀1627-1629 西暦967-969

950年6月12日(天暦4年5月24日)- 1011年11月21日(寛弘8年10月24日)は、日本(平安時代中期)の第63代天皇(在位:967年7月5日(康保4年5月25日) – 969年9月27日(安和2年8月13日))。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。

村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。気の病みがあり皇太子の時代から問題になっていたことから、補佐として藤原実頼が関白につき後継の検討にはいる。しかし2人の同母弟、為平親王(左大臣源高明が推す村上天皇第四皇子)と守平親王(右大臣藤原師尹が推す村上天皇第七皇子)との皇太子(皇太弟)をめぐる対立が起き藤原氏の後ろ楯を受け皇太弟には守平親王が立った。さらに対立は安和の変に発展、源高明は左遷され安和2年(969年)8月、冷泉天皇は親王に譲位して円融天皇が即位した。実頼は関白から摂政に移るが以降藤原氏の摂関職設置が常態化した。譲位後は冷泉院と称される。62歳で崩御。記録では死因は赤痢とされている[1]。

以後後一条天皇の即位まで約50年間弟の円融系との皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする曾孫の後三条天皇の即位で両皇統は融合される事となった。

64代  円融天皇 (えんゆう) 皇紀1629-1644 西暦969-984

村上天皇の第5皇子。母は皇后安子(藤原師輔女)。諱(いみな)は守平(もりひら)。967年(康保4)兄為平親王を超えて冷泉天皇(ともに安子所生)の皇太弟となる。969年(安和2)即位,摂政は藤原実頼であったが翌年に死し,師輔の子伊尹(これただ)が摂政となる。972年(天禄3)元服,その年伊尹が死ぬと,弟の権中納言兼通を内大臣に抜擢,内覧の宣旨を下し,ついで関白とした。

65代  花山天皇 (かざん) 皇紀1644-1646 西暦984-986

父は冷泉天皇,母は懐子。諱(いみな)は師貞(もろさだ)。984年即位。986年皇太子懐仁(やすひと)親王の即位を急ぐ外祖父藤原兼家らの陰謀により花山寺で出家,懐仁(一条天皇)が即位した。出家後は播磨国に赴いて書写山円教寺の性空(しょうくう)に結縁,さらに比叡山,熊野などに赴き仏道修行に励んだ。しかし帰京後は色好みの名を立てられ,藤原為光女に通ったことから,藤原伊周(これちか)から襲撃されるという事件が起きている。天皇は〈風流者〉と称されるように芸能に優れ,《拾遺和歌集》の撰にもかかわったとされる。

66代  一条天皇 (いちじょう) 皇紀1646-1671 西暦986-1011

天元3年6月1日生まれ。円融天皇の第1皇子。母は藤原詮子(せんし)(東三条院)。花山天皇の突然の退位により7歳で即位。藤原兼家が摂政となる。のちその子道長が右大臣ついで左大臣となって政治の実権をにぎった。治世中,清少納言,紫式部,和泉式部らが活躍。寛弘(かんこう)8年6月22日死去。32歳。墓所は円融寺北陵(みささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は懐仁(やすひと)。法名は精進覚。日記に「一条天皇御記(ぎょき)」。

67代  三条天皇 (さんじょう) 皇紀1671-1676 西暦1011-1016

冷泉天皇の第2皇子,母は太政大臣兼家の娘,贈皇太后藤原超子。寛弘8 (11) 年即位。藤原氏の全盛時代で,道長が左大臣として権勢をふるった。天皇は東宮のとき大納言藤原済時の娘 娍子 (せいし) と道長の娘妍子 (けんし) の2妃があり,践祚後,娍子に立后の意志があったにもかかわらず,道長をはばかり妍子を皇后に,娍子を中宮に立てた。道長は済時に太政大臣を追贈することを奏して 娍子を皇后に立てたが,皇位継承問題が起ると,外孫の一条天皇第2皇子敦成親王 (のちの後一条天皇) の擁立を強く主張した。そこで天皇は 娍子所生の第1皇子敦明親王を皇太子にすることを条件にその言を入れ,在位4年半の長和5 (1016) 年1月譲位した。陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町の北山陵。

68代  後一条天皇 (ごいちじょう) 皇紀1676-1696 皇紀1676-1696

一条天皇第2皇子。1016年―1036年在位。母は藤原道長の娘彰子(しょうし)。道長とその子藤原頼通(よりみち)が相次いで摂政・関白となり,道長の娘威子(いし)が中宮となるなど,外祖父道長が政治的実権を握った。

69代  後朱雀天皇 (ごすざく) 皇紀1696-1705 西暦1036-1045

一条天皇の第3皇子で,母は彰子(上東門院)。1036年即位,1045年病により親仁親王(後冷泉天皇)に譲位。《後朱雀天皇御記》(《長暦御記》)を著したが,逸文のみが伝わる。

70代  後冷泉天皇 (ごれいぜい) 皇紀1705-1728 西暦1045-1068

万寿2年8月3日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第1皇子。母は藤原嬉子(きし)。父の死により即位。母の兄藤原頼通が先帝時代につづき関白をつとめる。在位中,浄土思想がさかんになり,宇治に平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)がつくられた。また陸奥(むつ)安倍氏による前九年の役がおこった。

71代  後三条天皇 (ごさんじょう) 皇紀1728-1732 西暦1068-1072

72代  白河天皇 (しらかわ) 皇紀1732-1746 西暦1072-1086

73代  堀河天皇 (ほりかわ) 皇紀1746-1767 西暦1086-1107

白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。白河天皇の次の東宮には父後三条院の意志で白河天皇の弟実仁親王が立ったが,後三条院は実仁の次にはその弟輔仁をという意向であったと伝えられる。1085年(応徳2)実仁親王が病没すると白河天皇は輔仁親王を東宮に立てず,翌年8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位して院政を開始した。

74代  鳥羽天皇 (とば) 皇紀1767-1783 西暦1107-1123

75代  崇徳天皇 (すとく) 皇紀1783-1801 西暦1123-1141

76代  近衛天皇 (このえ) 皇紀1801-1815 西暦1141-1155

保延(ほうえん)5年5月18日生まれ。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は藤原得子(とくし)(美福門院)。異母兄崇徳(すとく)天皇の譲位をうけ,永治(えいじ)元年3歳で即位。在位中,父鳥羽上皇が院政をおこなう。久寿2年7月23日17歳で夭折。その死は呪詛(じゅそ)によるとの噂(うわさ)が流れた。墓所は安楽寿院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ)(京都市伏見区)。

77代  後白河天皇 (ごしらかわ) 皇紀1815-1818 西暦1155-1158

78代  二条天皇 (にじょう) 皇紀1818-1825 西暦1158-1165

後白河天皇の第1皇子。母は贈皇太后源懿子 (いし) 。久寿2 (55) 年皇太子となり,保元3 (58) 年8月 11日即位。院政を否定して天皇親政の実をあげようとしたので,父後白河上皇との間は円滑を欠いた。平治の乱には藤原信頼,源義朝らによって黒戸御所に幽閉され,平清盛らの助けで脱出,清盛の六波羅邸に入り,乱後,清盛らに官爵を与えてこれを賞した。永万1 (65) 年皇子順位 (六条天皇) に譲位。陵墓は京都市北区の香隆寺陵。

79代  六条天皇 (ろくじょう) 皇紀1825-1828 西暦1165-1168

長寛2年11月14日生まれ。二条天皇の皇子。母は伊岐致遠(いきの-むねとお)の娘。父の病気で2歳で即位。後白河上皇が院政をおこない,平清盛が太政大臣となる。仁安(にんあん)3年5歳で高倉天皇に譲位。元服以前に太上天皇を称したのは初めて。安元2年7月17日死去。13歳。墓所は清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は順仁(のぶひと)。

80代  高倉天皇 (たかくら) 皇紀1828-1840 西暦1168-1180

永暦(えいりゃく)2年9月3日生まれ。後白河上皇の皇子。母は平滋子(しげこ)(建春門院)。六条天皇が5歳で譲位し,8歳で即位。平清盛が絶大な権力をふるい,後白河上皇との対立がふかまる。治承(じしょう)4年清盛の娘徳子(建礼門院)との間に生まれた3歳の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)に位をゆずった。治承5年1月14日死去。21歳。墓所は後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は憲仁(のりひと)。

81代  安徳天皇 (あんとく) 皇紀1840-1845 西暦1180-1185

高倉天皇の第1皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)。1180年3歳で即位,1185年まで在位。源平の戦に平宗盛に擁せられて西走,1185年壇ノ浦の戦で平氏一門とともに入水。

82代  後鳥羽天皇 (ごとば) 皇紀1843-1858 西暦1183-1198

83代  土御門天皇 (つちみかど) 皇紀1859-1870 西暦1198-1210

3歳余で即位。1210年父上皇の命令で弟順徳天皇に譲位。承久(じょうきゅう)の乱後,討幕計画には無関係であったが,自ら進んで土佐(とさ)に配流。のち阿波(あわ)に移り同所で死亡。遺骨は母承明門(しょうめいもん)院により山城(やましろ)金原(現京都府長岡京市)に移葬された。

84代  順徳天皇 (じゅんとく) 皇紀1870-1881 西暦1210-1221

有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。享年46。

85代  仲恭天皇 (ちゅうきょう) 皇紀1881-1881 西暦1221-1221

中宮所生の嫡出の皇子として誕生し、生後1か月の11月26日に立太子。父の順徳天皇が祖父の後鳥羽上皇と共に北条氏追討の挙兵(いわゆる承久の乱)に参加するため、承久3年(1221年)4月20日に譲位され4歳で践祚。同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐に配流された。7月9日に幕府の手によって仲恭天皇は皇位を廃され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。仲恭天皇は幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている。まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、天福2年(1234年)17歳にて崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇である。

86代  後堀河天皇 (ごほりかわ) 皇紀1881-1892 西暦1221-1232

承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる。

87代  四条天皇 (しじょう) 皇紀1892-1902 西暦1232-1242

1231年2月12日に、後堀河天皇と九条道家の娘(藻璧門院)との間に第一皇子として生まれる。同年4月11日には親王、同年10月28日には立太子され、1232年10月4日に父の後堀河天皇の譲位により12月5日に即位した。幼児の身であった為、即位後2年間は実父の後堀河上皇が院政を敷き、上皇崩御後は、外祖父にあたる九条道家や西園寺公経が政務をとりしきり、1241年1月5日元服した。しかし翌1242年2月10日に不慮の事故により崩御。

88代  後嵯峨天皇 (ごさが) 皇紀1902-1906 西暦1242-1246

土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて,幕府の推挙により皇位についた。すでに23歳になっていた天皇は,進んで政務に精励したが,在位わずか4年で位を後深草天皇に譲り,以後,後深草・亀山2代にわたって院中に政務を親裁した。

89代  後深草天皇 (ごふかくさ) 皇紀1906-1919 西暦1246-1259

土御門天皇の第2皇子。名は邦仁。母は土御門通宗の女源通子。誕生後1年にして母を亡くし,ついで承久の乱のため父上皇と生別,祖母の承明門院源在子に養育されたが,1242年(仁治3)四条天皇の急死の後をうけて,幕府の推挙により皇位についた。すでに23歳になっていた天皇は,進んで政務に精励したが,在位わずか4年で位を後深草天皇に譲り,以後,後深草・亀山2代にわたって院中に政務を親裁した。

90代  亀山天皇  (かめやま) 皇紀1919-1934 西暦1259-1274

91代  後宇多天皇 (ごうだ) 皇紀1934-1947 西暦1274-1287

山天皇第2皇子。1274年即位。この即位は後深草(ごふかくさ)天皇系の持明院(じみょういん)統,亀山天皇系の大覚寺(だいかくじ)統の対立の端緒となる。1287年伏見天皇に譲位したが,続けて持明院統の後伏見天皇が即位したため,幕府に働きかけて皇子の後二条天皇を即位させて院政を行い,後醍醐天皇の即位当初も院政を行った。

92代  伏見天皇 (ふしみ) 皇紀1947-1958 西暦1287-1298

後深草(ごふかくさ)天皇の皇子。1290年までは父の院政であったが,その後は親政をしき,院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)の代わりに宮中に議定衆(ぎじょうしゅう)をおくなど公家政治振興に努めた。また当時皇統が持明院統・大覚寺(だいかくじ)統に分かれ,皇位継承をめぐる政争があったが,伏見天皇は持明院統の地位を確立した。

93代  後伏見天皇 (ごふしみ) 皇紀1958-1961 西暦1298-1301

伏見天皇の第1皇子。母は藤原経子(けいし)。父の譲位をうけて即位。持明院統。2年半で大覚寺統の後二条天皇に位をゆずる。異母弟の花園天皇と子の北朝第1代光厳(こうごん)天皇のとき院政をおこなう。鎌倉幕府がたおれたのちの,建武(けんむ)3=延元元年4月6日死去。49歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は胤仁(たねひと)。

94代  後二条天皇  (ごにじょう) 皇紀1962-1968 西暦1301-1308

後宇多(ごうだ)天皇の第1皇子。母は西華門院源基子(もとこ)(父堀河具守(とももり))。1298年(永仁6)立太子。92代伏見(ふしみ)、93代後伏見天皇と持明院(じみょういん)統側が2代続いて皇位についたので、大覚寺(だいかくじ)統の後宇多上皇は鎌倉幕府を責めて、両統迭立(てつりつ)の法をたてさせた。その結果、1301年(正安3)1月践祚(せんそ)、3月即位した。治世中は父上皇が院政を行い、東宮には持明院統の富仁(とみひと)親王(花園(はなぞの)天皇)が立った。陵墓は京都市左京区北白川の北白河陵。

95代  花園天皇 (はなぞの) 皇紀1968-1978 西暦1308-1318

伏見天皇の皇子。母は藤原季子(顕親門院)。後伏見天皇の異母弟。大覚寺統の後二条天皇のあと即位。持明院統。在位中は父,つづいて兄が院政をおこなう。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立(てつりつ)案(文保(ぶんぽう)の和談)は不調におわるが,大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇に譲位した。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年11月11日死去。52歳。墓所は十楽院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は富仁(とみひと)。法名は遍行。

96代  後醍醐天皇 (ごだいご) 皇紀1978-1999 西暦1318-1339

97代  後村上天皇 (ごむらかみ) 皇紀1999-2028 西暦1339-1368

後醍醐(ごだいご)天皇の第8皇子。母は新待賢門(しんたいけんもん)院阿野廉子(あのれんし)。名は義良(のりよし)。北畠顕家らとともに奥州統治につとめた。父後醍醐のあとをうけて践祚(せんそ),以後大和吉野・賀名生(あのう),河内金剛寺(現大阪府河内長野市)などにより,南朝による天下一統のための戦に終始した。

98代  長慶天皇 (ちょうけい) 皇紀2028-2043 西暦1368-1383

後村上天皇の皇子。母は嘉喜門(かきもん)院藤原氏。名は寛成(ゆたなり)。摂津の住吉行宮(あんぐう)で践祚(せんそ)。南朝不振のころであったため,吉野・河内金剛寺(現大阪府河内長野市)・大和栄山寺(現奈良県五條市)と行宮を移した。かつて在位が疑問視されていたが,八代国治らの研究により在位が証明された。

99代  後亀山天皇 (ごかめやま) 皇紀2043-2052 西暦1383-1392

100代  後小松天皇 (ごこまつ) 皇紀2042-2072 西暦1382-1412

 

101代  称光天皇 (しょうこう) 皇紀2072-2088 西暦1412-1428

後小松天皇の第1皇子。母は藤原資子(光範門院)。持明院統の父の譲位をうけて即位し,父が院政をおこなう。父の代に実現した南北朝合一の条件である持明院(北朝)・大覚寺(南朝)両統迭立(てつりつ)に反すると非難され抗争がおきた。生来病弱で,皇子はなく,皇位継承などをめぐって父と対立したまま,正長(しょうちょう)元年7月20日死去。28歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。

102代  後花園天皇 (ごはなぞの) 皇紀2088-2124 西暦1428-1464

103代  後土御門天皇 (ごつちみかど) 皇紀2124-2160 西暦1464-1500

後花園天皇の第1皇子。母は藤原信子(嘉楽門院)。父の譲位をうけて即位。その3年後におきた応仁(おうにん)の乱で,京の都は戦火にあれ,社会不安は地方にまでおよんだ。幕府の権威はおとろえ,財政は窮迫して朝儀もままならず,何度も譲位をかんがえたという。明応9年9月28日死去。59歳。

104代  後柏原天皇 (ごかしわばら) 皇紀2162-2188 西暦1500-1526

後土御門(ごつちみかど)天皇の第1皇子。母は源朝子(ちょうし)。父の死で皇位をつぐ。応仁(おうにん)の乱の影響で,父の葬儀もすぐにはできず,即位式も践祚(せんそ)21年後の永正(えいしょう)18年におこなうなど財政逼迫(ひっぱく)のなかで,朝儀の復興につとめた。大永(たいえい)6年4月7日死去。63歳。

105代  後奈良天皇 (ごなら) 皇紀2188-2219 西暦1526-1557

後柏原(ごかしわばら)天皇の第2皇子。母は藤原藤子(豊楽(ぶらく)門院)。父の死により皇位をつぐ。戦乱がつづいて国はみだれ,皇室財政も逼迫(ひっぱく)していたので,即位式は践祚(せんそ)の10年後におこなわれた。天文(てんぶん)9年悪疫流行の終息をいのって,般若心経を書写して諸国の一宮(いちのみや)に奉納した。在位中にポルトガルによって鉄砲がつたえられ,宣教師ザビエルが渡来した。弘治(こうじ)3年9月5日死去。62歳。

106代  正親町天皇 (おおぎまち) 皇紀2219-2248 西暦1557-1586

後奈良天皇の第2皇子。母は藤原栄子(吉徳門院)。弘治(こうじ)3年父の死で践祚(せんそ)したが,即位式は毛利元就(もとなり)らの献金により3年後におこなった。織田信長,豊臣秀吉らの援助で,宿願だった皇居の修理,伊勢神宮の造営や遷宮,朝儀の復興などにつくした。秀吉を関白に任じた翌年譲位。文禄(ぶんろく)2年1月5日死去。77歳。

107代  後陽成天皇 (ごようぜい) 皇紀2248-2273 西暦1586-1611

108代  後水尾天皇 (ごみずのお) 皇紀2273-2291  西暦1611-1629

後陽成天皇の第3皇子。母は中和門院藤原前子 (太政大臣近衛前久の娘) 。慶長 16 (11) 年受禅,即位した。元和6 (20) 年将軍徳川秀忠の娘和子を女御とし,寛永1 (24) 年皇后宣下,中宮とした。しかし朝廷に対する幕府の圧迫が激しいため,同6年中宮和子所生のわずか7歳の興子内親王 (明正天皇) に譲位し,以後明正,後光明,後西,霊元天皇の4代にわたって院政を行なった。慶安4 (51) 年剃髪。

109代  明正天皇 (めいしょう) 皇紀2291-2305 西暦1629-1643

後水尾天皇の第2皇女。母は徳川和子(東福門院)。父の譲位により7歳で即位。父が院政をおこなう。称徳天皇以来の女帝で,将軍徳川秀忠の孫。21歳で異母弟の後光明天皇に譲位。元禄(げんろく)9年11月10日死去。74歳。

110代  後光明天皇 (ごこうみょう 皇紀2305-2316 西暦1643-1654

後水尾天皇の第4皇子。母は藤原光子(壬生(みぶ)院)。異母姉明正(めいしょう)天皇の譲位により即位し,父の上皇がひきつづき院政をおこなう。儒学(朱子学)をまなび,藤原惺窩(せいか)に私淑。正保(しょうほ)3年,応仁(おうにん)の乱で中断していた伊勢例幣使を再興した。疱瘡(ほうそう)にかかり,承応(じょうおう)3年9月20日死去。22歳。

111代  後西天皇 (ごさい) 皇紀2316-2323 西暦1654-1663

後水尾天皇の第8皇子。母は藤原隆子(逢春門院)。異母兄の後光明天皇のあと即位。父の上皇が院政をおこなう。江戸の明暦の大火,御所炎上,諸国で地震,風水害がおこるなど,凶事がつづいたこともあって譲位。東山御文庫の基となる御所の記録の副本をつくらせた。貞享(じょうきょう)2年2月22日死去。49歳。

112代  霊元天皇 (れいげん) 皇紀2323-2347 西暦1663-1687

後水尾天皇の第19皇子。母は藤原国子(新広義門院)。異母兄後西天皇の譲位をうけて10歳で即位。幕府は4代将軍徳川家綱,5代綱吉の時代にあたる。貞享(じょうきょう)4年譲位,その後東山・中御門(なかみかど)天皇の2代46年間院政をおこなう。和歌や漢詩,書道,絵画をよくした。享保(きょうほう)17年8月6日死去。79歳。

113代  東山天皇 (ひがしやま) 皇紀2347-2369 西暦1687-1709

後水尾天皇の第19皇子。母は藤原国子(新広義門院)。異母兄後西天皇の譲位をうけて10歳で即位。幕府は4代将軍徳川家綱,5代綱吉の時代にあたる。貞享(じょうきょう)4年譲位,その後東山・中御門(なかみかど)天皇の2代46年間院政をおこなう。和歌や漢詩,書道,絵画をよくした。享保(きょうほう)17年8月6日死去。79歳。

114代  中御門天皇 (なかみかど) 皇紀2369-2395 西暦1709-1735

東山天皇の第5皇子。母は藤原賀子(新崇賢門院)。父の譲位をうけて即位するが,父の代に復活した大嘗(だいじょう)祭はまた中止となる。幕府は6代将軍徳川家宣(いえのぶ),7代家継(いえつぐ),8代吉宗の時代。弟直仁(なおひと)親王に閑院宮家を創立させた。元文2年4月11日死去。37歳。

115代  桜町天皇 (さくらまち) 皇紀2395-2407 西暦1735-1747

中御門(なかみかど)天皇の第1皇子。母は藤原尚子(新中和門院)。父の譲位をうけて即位。大嘗(だいじょう)祭,新嘗祭などを復活させた。和歌をこのんだ。幕府は8代将軍徳川吉宗,9代家重(いえしげ)の時代。寛延3年4月23日死去。31歳。

117代  後桜町天皇 (ごさくらまち) 皇紀2422-2430 西暦1762-1770

桜町天皇の第2皇女。母は藤原舎子(いえこ)(青綺門院)。桃園天皇の異母姉。桃園天皇の死後,皇嗣英仁(ひでひと)親王(のちの後桃園天皇)が幼少だったため皇位をついだ。最後の女帝。在位中,幕府による尊王家弾圧の明和事件がおきた。譲位後は後桃園・光格の2天皇を訓育。和歌や漢学をこのんだ。文化10年閏(うるう)11月2日死去。74歳。

118代  後桃園天皇 (ごももぞの) 皇紀2430-2439 西暦1770-1779

桃園天皇の第1皇子。母は藤原富子(恭礼門院)。伯母の後桜町天皇の譲位をうけて13歳で即位。幕府は10代将軍徳川家治(いえはる)の時代。在位10年皇嗣をきめないまま,安永8年10月29日死去。22歳。

119代  光格天皇 (こうかく) 皇紀2439-2477 西暦1779-1817

閑院宮典仁(かんいんのみや-すけひと)親王の第6王子。母は大江磐代(いわしろ)。皇子のない後桃園天皇が皇嗣をきめず急逝したため,9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。寛政元年父典仁へ太上天皇の尊号をおくろうとして,老中松平定信に阻止された(尊号一件)。和歌や音楽をよくした。天保(てんぽう)11年11月19日死去。70歳。

120代  仁考天皇 (じんこう 皇紀2477-2506 西暦1817-1846

光格天皇の第6皇子。母は藤原婧子(ただこ)(東京極院)。父の譲位をうけて即位。父が院政をおこなう。幕府は11代将軍徳川家斉(いえなり),12代家慶(いえよし)の時代。学問をこのみ,父の発意による公家子弟の教育機関である学習所(のちの学習院)創設に着手した。弘化(こうか)3年1月26日死去。47歳。

121代  孝明天皇 (こうめい) 皇紀2506-2526 西暦1846-1866

122代  明治天皇 (めいじ) 皇紀2527-2572 西暦1867-1912

123代  大正天皇 (たいしょう) 皇紀2572-2586 西暦1912-1926

明治天皇の第3皇子。母は柳原愛子(なるこ)。父の死により即位し,大正と改元。在位中は,第一次世界大戦,中国に対しての二十一ヵ条の要求,ロシア革命後のシベリア出兵,国内では護憲運動,天皇機関説論争,関東大震災などがおきた。幼少から健康がすぐれず,大正10年11月皇太子裕仁(ひろひと)(のちの昭和天皇)を摂政とした。皇室としてはじめて一夫一妻制を確立した。大正15年12月25日死去。48歳。墓所は多摩陵(みささぎ)(東京都八王子市)。

124代  昭和天皇 (しょうわ) 皇紀2586-2649 西暦1926-1989

125代  今上陛下   皇紀2649- 西暦1989-n

 

天皇の祖先は山幸彦

天皇カテゴリの最新記事