歴代天皇57陽成天皇

歴代天皇57陽成天皇

陽成天皇(ようぜいてんのう、868年1月2日(貞観10年12月16日) – 949年10月23日(天暦3年9月29日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:876年12月18日(貞観18年11月29日) – 884年3月4日(元慶8年2月4日))。

生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、両親および基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。

基経は清和に娘2人を入内させていたが、さらに陽成の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后・高子が拒否したためではないかというのが、近年の説である。

これに対し、清和の譲位の詔は基経の摂政を陽成の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論もあるが、元慶4年(880年)12月の清和が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させている。

一連の確執の本質は摂政・基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成母子を排除させるに至ったとの見方もある。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和自身である。

高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘・頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。

基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。

事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。

宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、陽成は基経から迫られ、翌年2月に退位した(ただし、公には病気による自発的譲位である)。

幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたこともあり、暴君だったという説もあるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。

陽成には同母弟・貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟・貞辰親王(女御・佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曾祖父・仁明天皇の従弟でかつて皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶される。仁明の異母弟である左大臣・源融は自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。結局、仁明の皇子(陽成の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父の時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することになった。

 

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

日本最大級のお墓ポータルサイト「いいお墓」

天皇カテゴリの最新記事