歴代天皇 21代雄略天皇

歴代天皇 21代雄略天皇

雄略天皇 (允恭天皇7年12月 – 雄略天皇23年8月7日)(418〜479)

允恭天皇の皇子。母はオサカノオオナカツヒメノミコト。名はオオハツセノワカタケノミコト。

安康天皇(たぶん倭王興)の3年、天皇が従弟の眉輪王に暗殺されるという事件が起きます。ここで安康天皇の実弟である雄略眉輪王及びその協力者と考えられた堺黒彦皇子、および政敵の市辺押磐皇子を一気に倒して、自ら皇位に付きました。この時代は力あるものが皇位につくという時代でした。

雄略天皇の時代になって、日本の君主が皇帝の臣下と位置づけられる状態に終止符が打たれ、こののち、中華皇帝と日本の君主の間に君臣関係が復活することは、二度となかった。

平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に,大伴連室屋と物部連目を大連とし,秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重く用いて政権の強化に努め,強大な権力をもった専制的君主であったとみられる。

『宋書』倭国伝などに記された倭王武は,雄略天皇であると考えられ,古代天皇の専制的,英雄的性格の頂点に立っている(→倭の五王)。しかし朝鮮では,雄略天皇の前後から高句麗,新羅が百済および任那を圧迫したので,天皇はしばしば兵を送ったが,朝鮮の支配はしだいに困難となった。またこの代に呉の国から漢織,呉織(くれはとり)など機織りの技術者を迎え入れたと伝えられる。大和の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に都し,草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。橘姫)を立てて皇后とした。皇后には子がなく,天皇の死後は葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の娘,葛城韓媛(かつらぎのからひめ)の産んだ白髪皇子(清寧天皇)と,吉備氏の娘稚媛の産んだ星川皇子とが皇位を争った。陵墓は大阪府羽曳野市島泉の丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。

倭王武の上表文(478年)と『日本書紀』との対比

上表文の内容と『日本書紀』を比較すると若干の違いがある。『日本書紀』には倭国が高句麗と戦ったことと、南宋に使者を送ったことは記されているが、南宋から爵号をもらったことは記録されていない。

これは、聖徳太子以降、中国と対等の立場に立った日本が、かつて爵号をもらって中国の臣下になったことを記録に残したくなかったのだと考えられる。

倭王武の上表文には、倭人が百済を経由して中国との間を往復したことが記されている。漢字の読み方で呉音と呼ばれるものは、中国南朝の音の百済なまりと考えられるので、百済経由での南朝文化の伝来が、呉音が大量に日本に入ってきたのではないか。

倭王武の上表文のなかに、「祖禰(そでい)自ら甲冑をきて、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処にいとまはなかった。東は毛人(蝦夷、アイヌか)を征すること55ヶ国。西は、衆夷(熊襲、 隼人などか)を服すること66国。渡って海北を平らげること95国。・・・」という記述がある。

ここに記される毛人について考える。結論から言えば、毛人とは、東北方面に住んでいた蝦夷のことを指しているのではないか。

蝦夷については、『日本書紀』斉明天皇紀に次のような記事が存在する。

遣唐使が「道奥の蝦夷男女二人」を唐の天子にみせた。
天子がたずねた。  これらの蝦夷の国はどこにあるのか。
使人(遣唐使)がつつしんで答えた。  国は東北にあります。
天子がたずねた。  蝦夷には何種あるのか。
使人が答えた。  三種あります。
遠いものを都加留(つかる:津軽、青森県西半部とみられる)と名づけます。
つぎのものを粗蝦夷(あらえみし:大和朝廷に熟化していない蝦夷の意味か)と名づけます。
近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名づけます。毎年、大和朝廷に入貢します。

蝦夷とは、東北地方に住む大和朝廷に従わない人々のことで、その一部にアイヌが含まれてたと考えられる。 そして、次のような事柄は、毛人=蝦夷であることを示すものである。

  • 『旧唐書』『新唐書』などでは、つぎのように蝦夷の住む東北地方を毛人の国と記す。
    『旧唐書』「(日本の)東界、北界に大山があって限りをなし、山外は、すなわち、毛人の国である。」
    『新唐書』「東、北は大山を限りとして、その外はすなわち毛人という。」
  • 蘇我豊浦毛人大臣(そがのとゆらのえみしのおおおみ)や佐伯今毛人(さえきのいまえみし)のように、「毛人」とかいて「えみし」と読ませる著名な人名の例がある。日本では、蝦夷=毛人とする伝統があったことを示しているからのではないか。

稲荷山鉄剣銘文

1978年、埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣につぎのような銘文が発見された。

銘文のなかのワカタケル大王とは雄略天皇のことである。この銘文は、武蔵の国の有力者が雄略天皇に仕えたことを記している。また、『日本書紀』雄略天皇紀には、武蔵の直丁(つかえのよぼろ)と信濃の直丁が、大和朝廷に徴発され、都で働いているようすが記されている。

これらは、雄略天皇の時代には、武蔵の国まで大和朝廷の版図に入っていたことを示すものである。

熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳から75文字の銘をもつ銀象嵌大刀が出土した。この銘文の大王名が稲荷山鉄剣銘文と同じである可能性が指摘されている。すなわち、雄略天皇の大和朝廷がこの地方も版図に組み込んでいたと推定されるのである。

日本武の尊の時代には、関東も九州も反抗する勢力がいて、日本武の尊が遠征して蝦夷や熊襲を討ったところである。五代あとの雄略天皇の時代には、この地域が大和朝廷の体制にすっかり組み込まれていたことがわかる。

第8代孝元天皇の皇子の大彦の命である。多くの学者によって、孝元天皇も大彦の命も架空の人物とされてきたが、この銘文によってその実在が確認された。

皇室の系図をまとめた『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』に、大彦の命の系図が記されている。

これによると、大彦の命は、阿倍朝臣、布勢朝臣、阿閇臣、高橋朝臣、阿閇朝臣、膳臣などの祖先とされる。

系図をよく見ると、大彦の命の孫に当たる「豐韓別命」は、鉄剣銘文でオホヒコの孫の「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方がよく似ている。また、鉄剣の「多加披次獲居(タカハシワケ)」は、大彦の命の子孫の高橋朝臣と関連していると思われる。

 

皇統一覧(歴代天皇)に戻る

 

天皇カテゴリの最新記事