歴代天皇1・神武天皇

歴代天皇1・神武天皇

1・神武天皇

神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日

 

神武天皇76年3月11日は、初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 – 神武天皇76年3月11日)。和風諡号は、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと、『古事記』では神倭伊波礼毘古命)。諱は、彦火火出見(ひこほほでみ)あるいは狭野(さぬ)。

日本書紀・古事記(以下「記紀」という)に書かれている伝説上(定説)の人物で、初代の天皇です。
「はつくにしらすすめらみこと」と称されている。
高天原から天降ったニニギの曾孫で、兄五瀬命らと語らい東の美しい土地を目指して日向から宇佐・筑紫をを経由して瀬戸内海に入り大和をめざした。

 

河内に至り、その地の豪族の長髄彦がおり孔舎衛坂で戦いとなった。
戦いは神武一行に不利で兄の五瀬命を戦いで失い、また暴風雨に遭って海神を鎮めようとして稲氷命と御毛沼命の両兄が海中に身を投じた。
神武は日の神の啓示により日に向かって戦うことの益なきことを悟り、紀州へと迂回した。
その後熊野の荒坂津に上陸して一路大和を目指した。
途中ヤタガラスらの導きもあってようやく畿内大和に入った。
そこで長髄彦と戦いになったが饒速日命が神武を天神の子孫と認めて長髄彦を殺して帰順したのでようやく戦いは収まった。
しかし、神武の行く手はまだまだ困難が伴った。
橿原宮で即位して初代天皇がここに誕生した。

父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)、母は玉依姫(たまよりびめ)。

『日本書紀』本文・第11段の第1・第2・第3の一書・『古事記』では第4子とするが、その他にも諸説がある。
 兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。

妻子は次の通りです。

  • 妃:吾平津媛(あいらつひめ、記:阿比良比売)
    日向国吾田邑出身。『古事記』によれば阿多の小椅君の妹。なお、吾平津媛を神武天皇の大伯父である火闌降命の子とする系図[5]があり、そうであれば吾平津媛と神武天皇はいとこ違いの関係となる。
    • 第1子:手研耳命(たぎしみみ の みこと)
      神武天皇崩後、皇太子神渟名川耳尊に対する反逆(手研耳の反逆)を起こし殺害された。
    • 子:研耳命(きしみみ の みこと、記:岐須美美命) – 『先代旧事本紀』。紀に記載なし。

皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、記:富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売)

事代主神の娘。
    • 皇子:彦八井耳命(ひこやいみみ の みこと、『本朝皇胤紹運録』:彦八井命) – 『先代旧事本紀』。紀に記載なし。なお、『本朝皇胤紹運録』および『先代旧事本紀』は綏靖天皇の弟とする。
      茨田氏・手島氏の祖(記)。
    • 第2皇子:神八井耳命(かむやいみみ の みこと、神八井命)
      多氏・火氏・阿蘇氏・科野国造等の祖(紀・記)。
    • 第3皇子:神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ の みこと、神渟名川尊、渟名川耳尊)
      皇帝天皇(第2世皇帝)。

瀬戸内海東進

日向国にあった磐余彦尊は、45歳のときに兄や子を集め、塩土老翁がかたった東方の美しい地(奈良盆地)について紹介した。その地には青山が四方にめぐり、その中には天磐船に乗りて飛び降った者(饒速日)があるという。その地は天下を治めるのに適した場所だろうと考えた磐余彦尊は、そこに移り都をつくることを提案した。諸皇子はみなこれに賛成した。

この年、磐余彦尊はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。そこから筑紫国、安芸国、吉備国を経て難波の碕に至った。

退却と迂回

難波(浪速)から河内国草香邑青雲の白肩の津に至り、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した(のちに薨去)。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返し、草香津まで退いてそこから船を出した。

その後熊野を経て再び船を出すが暴風雨に遭い、進軍が阻まれることに憤慨した磐余彦尊の兄稲飯命と三毛入野命は東征軍から去ってしまった。

 磐余彦尊は熊野に再上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開したが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。菟田県を平定し、その後吉野を平定した。

磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると敵軍が充満しているのが見え、これをにくんだ。この夜の夢で天神地祇をまつるように天神より告げられた磐余彦尊は、それを実行して国見丘に八十梟帥を討った。その後磯城を平定した。

決戦と勝利

その後、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。長髄彦の主君である饒速日命(物部氏の遠祖)は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。

その後、磐余彦尊は従わない者たちを討った。

中洲を平定した磐余彦尊は畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせた。その後、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

即位と統治

辛酉年1月1日、磐余彦尊は橿原宮に即位し(神武天皇)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれた。この年を神武天皇元年とし、正妃を皇后とした。

神武天皇2年2月2日、功を定め賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目を畝傍山の西の川辺の地(のちの来目邑、現在の橿原市久米町)に居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。

神武天皇4年2月23日、天下をすでに平定し終わり海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神をまつった。

神武天皇29年、皇后との間に皇子神渟名川耳尊がうまれた。

神武天皇31年4月1日、巡幸して、腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ。トンボの交尾するさま。)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

神武天皇42年1月3日、神渟名川耳尊を皇太子と定めた(のちの綏靖天皇(第2代天皇))。

神武天皇76年3月11日、橿原宮に崩御。時に127歳。

翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られる。なおこの年を含む3年間は手研耳の反逆により空位となった。

神武天皇 畝傍山東北陵

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている(位置[9][10][11][12]。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名・俗称は「ミサンザイ」。『日本書紀』には127歳で崩御し、畝傍山東北陵に葬ると記されている。『古事記』には、137歳で崩御し、陵は畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。

壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。

『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。その後、文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決まり、幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。

東京塾・第26回研修会【長浜浩明】古代日本「謎」の時代を解き明かす 2014.11.8

 

長浜氏は、日本書紀の年代(神武天皇から敏達天皇まで)に「春秋年(2倍年暦)」を導入して「神武天皇即位の実年が紀元前70年であった!」ことを割り出した.

そして、即位年の実年を裏付けるために、神武天皇即位の実年当時の大阪平野の地形図に照らして、神武天皇東征の経路が日本書紀に記されている内容を検証した.
その結果、日本書紀の神武天皇の東征経路の大阪平野地域での記述が地形図にすべて整合していることを明らかにした.

また、3世紀の大阪平野の地形図は日本書紀の神武東征記述と整合しないことから、3世紀後半に神武東征があったとする安本美典氏の主張は成り立たないとして退けられることになったのである.

 

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