チベットの真実

チベット人大虐殺問題

中共侵略政府が“出頭期限”とした3月18日午前零時が過ぎ、ラサのチベット人家庭に対する一斉捜索が開始された。市内に展開する中共軍部隊などは、数百人規模の身柄拘束に乗り出した。「軍隊は街のいたる所にいます。どこにも行き来できません。すべてのチベット人は止められ、そしてIDチェックを受けています」

 

173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
156,758人が処刑死。
342,970人が餓死。
432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
92,731人が拷問死。
9,002人が自殺。以上、合計120万7387人

 

 

独立国家であったチベットは、1949年に口火を切った中国の侵略で、戦闘によって人命損失の危機にさらされ、続いてすぐに、共産主義イデオロギーと文化大革命(1967- 1976)に代表されるような計画によって、普遍的な自由さえも失ってしまった。

 

 

1951年、中国人民解放軍が、新疆方面、青海方面、チャムドの3方面からラサに向けて進軍、無血入城し、チベット全土を制圧する。

中国軍の機密資料によれば、人民解放軍は1952年〜1958年にかけて、アムドのカンロ[甘南]地区で996件の反乱を鎮圧し、10,000人以上のチベット人を殺害したという。またアムドのゴロク[果洛]地区では、1956年に130,000あった人口が、1963年にはおよそ60,000までに減ったという。

出典1949年〜1979年の虐殺 | 人権問題 | ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

 

 

 

パンチェン・ラマ10世

 

 

パンチェン・ラマ10世は毛沢東に7万言の意見書を提出し、中共政府の政策を批判しました。このため、パンチェン・ラマ10世は共産党の激怒を買い、自己批判を強要され、文化大革命の際には紅衛兵に拘束されて1968年から1978年2月25日まで投獄された。

 

全国人民大表大会常務委員会副委員長、中国仏教協会名誉会長、チベット仏教の優れた指導者であったパンチェンラマ10世・ロブサン・ティンレー・チューキ・ギャルツェン師が入寂してから、1月28日で20年を迎えるのを記念して、貴重な写真でパンチェン・ラマ10世を振り返る。

パンチェン・ラマ10世・ロブサン・ティンレー・チューキ・ギャルツェン師の俗名はゴンポ・テツェン。1938年2月3日、青海省循化県文都郷麻日村のチベット族の農家に誕生。

 3歳の時にチベットのシガツェ(日喀則)にあるタシルンポ寺(扎什倫布寺)を訪問した際、パンチェン・ラマ9世のトゥプテン・チューキ・ニマ師から、パンチェン・ラマの生まれ変わりである転生霊童と認められ、中国国民党政府の承認後、6月11日に即位した。就任式は同年8月10日。1989年1月28日にチベットのシガツェの自宅である新宮徳虔格桑頗章で入寂。享年51歳。

 

1966年から中国で吹き荒れた文化大革命で、モンゴル人に対してなされたとされる事例である。主導したのは漢族。被害者数について楊氏はいくつかの数字を挙げている。欧米の研究者の数字として、拘束されたモンゴル人約50万人、うち殺害された者10万人。内モンゴル自治区のジャーナリストや研究者の数字として、殺害された者と釈放され自宅に戻ってから亡くなった人の合計は「30万人」。楊氏も、これは妥当な数字だとしている。

「狂暴国家 中国の正体」で、モンゴル人にとって文化大革命はジェノサイド=民族抹消行為だったとしている。「毛沢東と、人民の味方たる共産党の首長が断罪した『民族分裂主義者』たちを殺害することは、躊躇(ちゅうちょ)ない善なる『革命行為』に発展していった」と。内モンゴル自治区のモンゴル人が「民族分裂主義者」と断罪されたとき、中国人(漢族)は「善」として虐殺をなしたというのである。

中国はこのようなことを認めようとしない。文化大革命全体の実態も闇に沈んでいるのである。そのような国が南京事件「30万人」を言い募っているということは、南京事件のこの数字が過大なものであると国際社会にアピールする際、紳士的に付記しておいてよいと思う。

楊氏の「狂暴国家 中国の正体」については、きちんと紹介しておくのが公平な姿勢だろう。本稿は「30万人」という数の偶然の一致から南京事件に関して同書を引用させてもらったが、同書は別に南京事件を扱ったものではない。中国による民族抑圧の実態とその背景にある中国の思考法を、抑圧される民族の側の視点で描いた著書である。

 

モンゴル問題に限らずウイグル問題もチベットのそれも、同じ視点で取り上げられていく。中国という異形の国の実態を浮き彫りにする好著であり、日本人に複眼的な視点を与えてくれるものだ。日本人は日本人の立場で中国について考えることに終始しがちだが、ユーラシア大陸で中国に苦しんできた民族の側から中国を見る目を教えてくれるのである。

楊氏の提言に学べるところは大きい。日本はモンゴルをはじめユーラシア外交にもっと目を向けるべきだという提言もそうだし、あるいは集団的自衛権をめぐる日本国内の議論について述べた次のようなくだり。「自衛権のない国家は去勢された男のような存在です」。泰平の平和のなかで集団的自衛権反対を叫ぶ左傾人士は、これをなんと読むか。

ダライ・ラマ声明

 

チベットには2000年の歴史がありますが、国を失い、数十万人が難民となったのは初めてです。1951年に中国が強制的に条約を結んだことで、法王始め8万人ほどの人がインドに亡命しました。現在インドには13-14万人ほどのチベット人が生活しています。そんな私達の訴えがこの中にあります。

チベット亡命政府ができて60年ほどになりますが、この間、私達がどのように生活してきたか、かつて経験しなかった難民の苦労が記録されています。ダライ・ラマ法王の言葉というのは、私達チベット人にとっては最高のメッセージです。チベット人が何を書こうが、何を言おうが、ダライ・ラマ法王の声明文に勝るものは無いのです。

 

日本だけでなく世界各国で、中国政府によるデマの方が浸透しています。この本を読むことで、チベットの真実が何なのかを理解していただくことができます。チベットの真実をお伝えするのに、法王のお言葉に勝るものはありません。

現状の日本におけるチベット問題関連の情報はあまりにも偏り過ぎていると言わざるを得ません。右派はもちろんのこと、一部の左派ですらダライ集団の歴史捏造プロパガンダばかりを鵜呑みにし、ダライ側が絶対善であるかのように思い込まされ洗脳されています。

 

チベットにあった統一王国

 

吐蕃(とばん、拼音:TŭbōまたはTŭfān、チベット語:བོད་ཆེན་པོ、ワイリー転写:Bod chen po)は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。

7世紀初めのンツェン・ガンポによる統一以後唐とは東部では吐谷渾(とよくこん)の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った。
9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。
634年ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。さらに王国の南に位置するネパールのリッチャヴィ朝に使者を遣わし、前王アンシュ・ヴァルマー(中国語版、英語版)(在位: 605年 – 629年)の娘、ティツン(中国語版、英語版)王女(ブリクティ、ペルサ)を妃に迎える、仏教国であったネパールの影響により仏教が広まった。
さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶される。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭(中国語版)などの羌族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫るが(松州の戦い(中国語版))、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらにガル・トンツェンユルスン(チベット語: མགར་སྟོང་བཙན་ཡུལ་སྲུང༌ ngar stong btsan yul srung、別名:祿東贊 ガル・トンツェン)を遣わし、金五千両を結納として贈る。
638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェン(中国語版、英語版)が吐蕃の王に即位。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主(ギャサ)をグンソン・グンツェンの妃として迎える。グンソン・グンツェン王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。
文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。
643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し、ソンツェン・ガンポが王に復位した。なお、同年、シャンシュン王国を併合し、ナレーンドラ・デーヴァ(Narendradeva、在位:643年頃 – 679年頃)をリッチャヴィ朝の君主に据えている。
646年、ソンツェン・ガンポ王は太宗の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。 647年、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアラナシュ(中国語版)(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者王玄策を保護している。
更に大軍を率いて当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き帰還している。649年、唐の太宗が死去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。
さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、スムパ族(中国語版、英語版)(蘇毗)平定に大功のあったニャン・マンポジェシャンナン(英語版、中国語版)(チベット語: མྱང་མང་པོ་རེང་ཞང་སྣང་ nyang mang po rje shang snang、中: 娘·芒布傑尚囊)や、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣のキュンポプンサ(英語版、中国語版)(チベット語: ཁྱུང་པོ་ཕྲུང་སད khyung po spung sad、中: 瓊波·邦色)を粛清している。649年末、病のため死去した。

ソンツェン・ガンポ王が死ぬと、王の子グンソン・グンツェン(中国語版、英語版)と文成公主の子であるマンソン・マンツェン[8](在位:650年 – 676年)が8歳で即位し、大論(宰相)ガル・トンツェン(在任:652年 – 667年)が国政を執った。

663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政,軍事,租税登録,徴発制度を改めて整備した。

667年にガル・トンツェンが死去すると、長子のガル・ツェンニャドムプ(英語版、中国語版)(チベット語: མགར་བཙན་སྙ་ལྡོབ་བུ)が大論の位を継いだ。弟のガル・ティンリン(チベット語: མགར་ཁྲིང་འབྲིང་བཙན་བྲོད་)は積極的に唐の西域で軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于闐、疏勒)を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンリンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い(中国語版))。

しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。

676年、マンソン・マンツェン王が死去し、ティドゥ・ソンツェン(ཁྲི༌འདུསསྲོང༌བཙན)王が即位すると、大羊と熱桑部が背くも短期間のうちに鎮圧された。唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄(中国語版、英語版)が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退した。このとき唐の前軍の将が捕虜となっている。

 

680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。 683年、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌684年にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒される程となった。

692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻、安西四鎮は陥落した。696年、唐に対して勝利を収めた。

699年、ティドゥ・ソンツェン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し大論のガル・ティンリンを自殺に追い込んだ。この粛清劇により、ガル氏は表舞台から消えた。

この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。

704年、ティドゥ・ソンツェン王が南詔親征中に戦死すると、生まれたばかりのティデ・ツグツェン[11](在位:704年 – 755年、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母(チマル(英語版))方のブロ[12]氏が政権を掌握したが政権は安定せず、デレンパノナンジャ(チベット語: ལྡེག་རེན་པའ་མནོནསྣང་གྲགས ldeg ren pah mnonsnang rjags、中: 岱仁巴農囊扎)やケガドナン(チベット語: ཁེ་རྒད་མདོ་སྣང་ khe rgad mdo snang、中: 開桂多囊)が反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。

 

唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主(中国語版)を迎える。大論(宰相)であったシャンツァントエルトサイビン(チベット語: ཞང༌བཙན༌ཏོ༌ེར༌ལྟ༌ས༌ིབྱན shang btsan to er lt sa ibyn、中: 尚賛咄)が公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。

チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネン(英語版)(チベット語: དབའས་ཁྲི་གཟིགས་ཞང་ཉེན dbavs khri gsigs shang nyen、中: 韋·乞力徐尚年)が任命され摂政したが、国威は振るわなかった。713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。

722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領したが、710年代-730年代は連年唐(蕭嵩(中国語版、英語版))と戦うも反間の計に掛かり歴戦の大論(宰相)バー・タジャコンルー(英語版)(チベット語: དབས་ཏ་ར་ཁོང་ལོད dbavs tag rja khong lod、中: 韋·達扎恭略、通称:中: 悉諾邏恭禄)を処刑した事もあって、東部の諸城を落とされるなど軍事的劣勢が続き、度々唐と講和した。739年、金城公主は吐蕃にて死去する。

 

751年、トゥーラーンの支配権を巡って唐は、前年のザーブ河畔の戦い(英語版)に勝利して誕生したばかりのアッバース朝とタラス河畔の戦いを行なったが、カルルクがアッバース軍に寝返り、敗れた唐は中央アジアの覇権を失った。同年、唐の剣南節度使、鮮于仲通が南詔に大敗。752年、唐に攻められた南詔国王閣羅鳳(中国語版、ベトナム語版)が吐蕃に助けを求め、王は閣羅鳳を王弟として冊封する。

754年に唐の楊国忠が派遣した四川長官の李宓が南詔を攻撃した際には、兵を送り南詔と共に唐軍を破った。

ティデ・ツグツェン王の時代は唐や西域から仏僧を拉致或は招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていたが、754年に大論(宰相)であった功臣のランメシク(チベット語: ལང་མྱེསཟིགས lang myessigs、中: 朗梅色)とバルドンツァブ(英語版)(チベット語: འབལ་ལྡོང་ཙབ hbal ldong tsab、中: 末東則布)が謀反し、755年にティデ・ツグツェン王が近衛兵によって殺害されスムパ族(中国語版、英語版)(蘇毗)も反乱を起こした。

ティデ・ツグツェンと金城公主の子ティソン・デツェン(在位:755年 – 797年)は乱を鎮圧して蘇毗族も滅ぼし王位を継ぐが、実権は大論(宰相)マシャン・ジョンバジェ(チベット語: ཞང་བློན་མ་ཞང་གྲོམ་པ་སྐྱེས、中: 瑪祥仲巴傑)を筆頭とする外戚[14]が握っており、仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し仏教を法律で禁じた。

 



755年に唐で安史の乱が起こると

唐朝廷へ支援を申し出る使者に内情を探らせると共に連年唐の領土で略奪を繰り返していたが、761年にティソン・デツェン王は外戚の専横を抑制して親政を始めると共に仏教禁令を解き、今度はインドから高僧を招き、四川から北宗禅僧の金和尚(英語版)を招聘。後にこの両派は対立し、サムイェー寺の宗論を起こす。

 

763年本格的に唐領へ軍を進めると大した抵抗を受けること無く唐西部の河西、隴右地区(現:青海省東部および甘粛省)の6州の降伏を受け占領した。763年、唐の首都長安へ兵を進めると、ここでも戦闘を交える事無く長安を占領した。763年10月、唐の長安を占領し金城公主(中国語版)の甥・李承宏(中国語版、英語版)を帝位に据えるが、陣中に疫病が流行り唐が反撃に出ると、半月後に長安から撤退した(この戦役を記念するために「雪の外碑」が建てられる)。これ以降、吐蕃は西域で唐に対して優勢を保った。

 

 

774年、王はインドから高僧シャーンタラクシタとパドマサンバヴァを招いて仏教を復興させた。779年、吐蕃と属国の南詔の異牟尋(中国語版、ベトナム語版)(在位:779年 – 808年)王は20万の大軍をもって四川の成都に侵攻したが、統制を回復していた唐軍に撃退された。同年、修行寺院であるサムエー寺が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され多くの仏典が翻訳された。王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給、さらに王子,后妃,臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられ、仏教が厚く保護された。

 

 

781年から長年にわたる沙州(敦煌)包囲の末、786年に占領に成功する。その地の高僧摩訶衍を吐蕃に招聘した。787年にシャーンタラクシタが死去すると、インド仏教系の僧と中国系仏教の禅宗との関係が悪化。禅宗を禁教にさせることに成功した。790年、ジュンガル盆地の白突厥やカルルクと南シベリアのキルギス部を誘って、唐・ウイグル連合軍の居る北庭都護府を占拠すると、ウイグル・唐連合軍との50年に渡る戦争に突入。791年、摩訶衍が皇后(沒盧氏)を出家させると、792年に摩訶衍はティソン・デツェン王の勅命によって、チベットの地での布教を許可された。また、禅の信徒の抵抗で794年に禁教も解除された。

これに危機感を募らせたインド系仏教はインドから高僧カマラシーラを招聘した。王は摩訶衍とカマラシーラに命じて、サムエー寺で“悟り”について法論を闘わせた(サムイェー寺の宗論、792年 – 794年)。その結果、敗れた中国系仏教の禅宗頓門派の教えが禁じられた。797年頃、摩訶衍は敦煌へ放逐された。

 

797年、ティソン・デツェン王が死去。その子、ムネ・ツェンポ(中国語版、英語版)王が即位。王は臣民にボン教寺院と僧侶への布施を命じ、貧富の平均化を図るが、成功しないまま在位二年足らずで死去する。

これは母妃ツェパン・サ・マギャルドンカ(英語版)(チベット語: ཚེས་པང་ཟམོ་རྒྱལ་ལྡོང་སྐར tse spang ma rgyal ldong skar、中: 蔡邦·瑪加東格)による毒殺とされている。798年、ムネ・ツェンポ王の死後、その弟、ティデ・ソンツェン(別名:セナレク)が王位を継いだ。810年頃、ティデ・ソンツェン王は仏教に篤く、王妃,同盟小国の王子,大臣たちを召集し、子々孫々仏法を奉じ、今後、新たに娶る王妃には仏教信仰を誓約させることを規定した。

 

さらに、僧侶の中からタンボという僧官を選び寺院管理を任せ、高僧ニャンティンエシン(英語版)(チベット語: མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་、中: 娘·定埃增)をバンチェンポ(チベット語: བང་ཆེན་པོ་、中: 缽闡布)として大論(宰相)の上に置き、国政を司らせた。

ヤアクービーの伝えるところによれば、吐蕃がトランスオクシアナの中心都市サマルカンドを占領した。811年、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還とジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。

トルキスタン(現在のアルタイ山脈パミール高原以西、アム河以北の中央アジア東部)を支配する吐蕃からアッバース朝のカリフ・マアムーンに黄金の贈り物があり、後にメッカのカアバに送られた。

814年、ティデ・ソンツェン王は、インド,西域,漢土から仏教の高僧を招いて仏典を翻訳させ、訳語を統一し、チベット語の語句を整理し、声明学に合致すべきこと、仏教経典の意味に合致すべきこと、吐蕃人にとって理解しやすいこと、という仏典翻訳の三大原則を決めた。815年にティデ・ソンツェン王は死去した。

その子、ティツク・デツェン(別名:レルパチェン)王が王位を継いだ。821年、吐蕃は長安に使節を送り、唐の大臣たちと和解の盟約(長慶会盟)を行う。822年、唐の使節劉元鼎がラサに到り、吐蕃の大論(宰相)たちと盟約を行い、翌年、ラサの大昭寺の前に唐蕃会盟碑を建立した。これによって吐藩と唐の間で和解が成立する。

 

 

このころ、チベットは仏教を国教とし始め、828年、ティツク・デツェン王の命令により大蔵経(一切経)をチベット語に翻訳、編纂を始めた。これらの大蔵経の目録はサムイェ、パンタン等に保存されている。これがチベット語での仏教経典の収集整理のはじまりになった。さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下した。しかし、これは民衆の不満を引き起こした。

 

 

840年頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和したが、吐蕃の支配層に内紛が発生した。841年、ティツク・デツェン王は大論(宰相)バー・ギャルトレ(英語版)(チベット語: དབས་རྒྱལ་ཏོ་རེ dbavs rgyal to re、中: 韋・甲多熱、別名:結都那 ウェイダナジェン)らに絞殺され、その兄弟ラン・ダルマ王が即位する。

843年、ラン・ダルマ王は仏教に反対する大論(宰相)ウェイダナジェンに扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し仏教を信仰する人々は不満を高まらせた。

842(846?)年、ラン・ダルマ王は、変装して近づいた仏僧のラルン・パルギ・ドルジェ(中国語版、英語版)に胸を矢で射られて暗殺される。

 

その後、王の子ユムテン(中国語版)ウースン(中国語版)による王位継承争い(チベット語: དབུ་གཡོར་འབྲུག་པ、伍約の戦い)が勃発し国は南北に分裂する。これを見た唐軍はチベットに対し軍を進め安史の乱時に吐蕃が占領した河西,隴右各地を唐に奪回される。

851年、沙州(敦煌)で張議潮による民衆軍、帰義軍の反乱が起き吐蕃の駐留軍が追い出される。これによって瓜州,沙州,伊州,粛州等11州が唐に復帰し、唐は張議潮を帰義軍政権の節度使に封じた。

869年、吐蕃の地方貴族と平民たちが、支配層に対する叛乱(チベット語: འབངས་ཀྱི་ཁེང་ལོག་རྣམས་རིམ་བར་བྱང、中: 各種屬民奴隸起義)を起こす。877年には叛乱勢力がロカ地方(波窩地方)のヤルルン渓谷(英語版)を占領し、吐蕃は滅亡した。チョンギェー地方の歴代王陵(英語版)は荒らされ、王家の後裔は四散した(吐蕃の崩壊(英語版))。

 

その後も中国の人々は、清朝の康煕年間(1720年代)ごろまで、この領域全体の地域呼称を吐蕃という呼称で総称し、あるいはこの領域を統治する勢力を「吐蕃」と称した。

チベットを示す西蔵という呼称は、中国大陸では1725年ごろから中央チベットとその周辺だけをさす地域呼称として使用されており、現在も中華人民共和国政府はアムドやカムを含むチベット全域の総称としては使用していない。

清朝の雍正帝は1723-24年にグシ・ハン王朝(1642年 – 1724年)を征服、彼らがチベット各地の諸侯や直轄地に有していた支配権をすべて接収し、タンラ山脈とディチュ河を結ぶ線より南側に位置する地域は、ガンデンポタンの統治下に所属させ、この線より北側の地域は、青海地方を設けて西寧に駐在する西寧弁事大臣に管轄させたほか、残る各地の諸侯は、隣接する陝西(のち分離して甘粛)、四川、雲南などの「内地」の各省に分属させた。「西蔵」という地域呼称は、康煕時代から中国文献に登場しはじめていたが、これ以降、チベットのうちガンデンポタンの管轄下にある範囲が西蔵と称される。

 

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