日本人が奴隷として売買されていたのを知っていますか!!

日本人が奴隷として売買されていたのを知っていますか!!

日本人奴隷の歴史

ポルトガルの奴隷貿易(ポルトガルのどれいぼうえき)では、主に16世紀以降のポルトガル人によるアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。15世紀以降の大航海時代になると、黒人を奴隷とする大西洋奴隷貿易が盛んになるが、ポルトガル人のアジアへの進出に伴い、アジア人を奴隷とする奴隷貿易も行われるようになっていた。

奴隷商人
奴隷商人
ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易に発展した

 

1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。日本人の女性奴隷は、日本で交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、妾として売られていた、とポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ(Luís Cerqueira)が1598年に書かれた文書で述べている。日本人の奴隷はポルトガル人によってマカオに連れて行かれ、そこでポルトガル人の奴隷となるだけでなく、一部の者はポルトガル人が所有していたマレー人やアフリカ人の奴隷とさせられた

ポルトガルへの輸送の途上では、奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠および首輪によってお互いにつなぎ合わされた。ポルトガル人の所有者らは、奴隷たちが死なない限り、奴隷を鞭で打ったり、鎖で縛り付けたり、高温に熱した蝋や脂肪を奴隷の皮膚に注ぎかけたり、好き放題のやり方で奴隷に罰を加えた。ポルトガル人は奴隷が自分の財産であることを示すために人間用の焼き印も用いていた。




 

豊臣秀吉
戦国時代、多くの大名たちが欧米人との間で奴隷貿易を行っていた。これも教科書に記載されていない重要な事実だ。多くの日本人が奴隷として売りとばされ、哀しい想いをしていた。これに関して、豊臣秀吉は激怒し、キリスト教の宣教師に対して詰問する。
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」
教科書で「南京事件」「慰安婦」の問題が取り上げられることは多いが、こうした豊臣秀吉の功績については、問題にすらされていない。

秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史。

 

近世日本国民史

六世紀の後半には、ポルトガル本国やアメリカ、メキシコ、南米アルゼンチンにまでも日本人奴隷は売られるようになり、天正10年(1582年)に ローマに派遣された有名な天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して、驚愕しましたが、その会話が記録に残されています。

「我々の旅行の先々で、売られて奴隷の境遇に落ちた日本人を身近で見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣(牛や馬)の様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へ、あんなに安い値で掠って行かれ売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろか。」

天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布しましたが、その理由は ポルトガル人が キリスト教の布教を熱心におこない神の恵み、慈悲を説きながら、その一方で南蛮貿易において多数の日本人を安く仕入れ、奴隷として船に連行し、海外に売り飛ばす事実を知ったからでした。秀吉の言葉を伝える「九州御動座記」によれば、バテレン( 注参照 )どもは、諸宗を自分達の キリスト教に引き入れ、
それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である。という記述がありました。

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キリシタン大名の悪魔の所業

キリシタンは、火薬などと引き替えに、多数の若い日本人女性を奴隷としてポルトガル商人に売り払った!その数「50万人」

〇有馬晴信

宣教師ジョアン・ロドリーゲスの要求により、領民から「進物即ち少年少女達」を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送ろうとした。このため「有馬の地全土が苦悩におおわれ」「錯乱した人々は、子供たちをつれてしげみに逃れた。」といわれている。
南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。(以下略)

〇大友宗麟

宗麟は火薬製造に欠くことのできない硝石を手に入れ、輸入するためであれば、彼にとって豊の国の寺院を破壊したり、若き娘たちを売り払うことは何でもないことであった。

日本のキリスト教信者たちは、こうした事実を直視しなければならない。天正少年使節団の報告書にあるように、「50万という肌白くみめよき日本人の娘」が売り飛ばされた。信長も宗麟も、他のキリシタン大名たちも、寺社を焼き払い、神官や僧侶たちを焼き殺した。

 

ガスパール・コエリョ

 

バテレン追放令を受けてコエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して豊臣秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが、有馬晴信は小西行長と同様にコエリョを嫌っていたので実現しなかった。
その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否されると、次に1589年にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに働きかけて、大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会員たちを長崎の平戸に集結させ、潜伏して公然の宣教活動を控えることにしたが、1590年、コエリョは肥前国加津佐で死去した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払って、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている。

 




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