大国の傲慢(第一次世界大戦の真実)

大国の傲慢(第一次世界大戦の真実)

1914年6月28日、ボスニアの州都サライェヴォを訪れたオーストリアのフランツ・フェルデナント皇太子とその妃ゾフィーが、セルビアの青年に暗殺された事件であった。

統一国家の体を成していなかったドイツは、18世紀にビスマルク率いるプロイセン王国が中心となってオーストリアを排除するカタチでドイツの統一が進むことになる。

そんな新興国・プロイセンを警戒したのが、フランスです。19世紀末になると、プロイセンとフランスによる普仏戦争が起こります。勝利したプロイセンは1871年、国王ヴィルヘルム1世がパリでドイツ皇帝に即位したことで、ドイツ帝国が誕生しました。一方、敗戦したフランス国内では反独感情が残る状態となりました。一方、オスマン帝国(トルコ)とロシアも古くから犬猿の仲でした。それは民族問題であり、ロシアの強い支配を受けているトルコ系民族を解放し、サマンカルドを都としたトルコ人の帝国を樹立するというパン=トルコ主義に基づいたものです。

ドイツは帝国主義国家の中間入りを目指し、アジアやアフリカに植民地拡大を図ります。イギリスはインドのカルカッタ、エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウンをそれぞれ鉄道で結ぶ植民地政策を行い、海外進出の拠点としていました。これをそれぞれの都市の頭文字をとって3C政策と言います。

イギリスはアフリカを北のエジプトから南の南アフリカに向かって縦断するように植民地を拡大していきます。これに対抗するべくドイツはバクダート鉄道の建設を進め、ベルリン、ビザンティウム(イスタンブール)、バクダードを拠点として3D政策を展開します。

イギリスは勢いを見せるドイツを警戒するようになります。一方、フランスもイギリスに負けまいと本土に近いモロッコとアルジェリアからアフリカの植民地拡大を図ります。イギリスの縦断政策に対し、フランスは西のモロッコ・アルジェリアから横断するように植民地を拡大していきます。

アフリカ支配において、縦に領土を拡大するイギリス横に領土を拡大するフランス、両国の交差地点となったのは、スーダンのファショダで、英仏両軍は対立。一時、一触即発の危機に陥りましたがドイツという共通の敵がいることで「今は、イギリスとフランスが互いに争っている場合ではない。それよりも、ドイツという新興国をもっと警戒するべきだ。」と、考え英仏両軍はドイツの脅威に対抗するために事態を収拾。共にドイツと対立することを条件に友好関係を築く鉱石投稿になります。

東アジアでも1894年、新興国・日本と老大国・清が戦争を始めたのです。(日清戦争)。戦争は新興国である日本の勝利に終わり、老大国であったはずの清の弱体化が世界に知れ渡り列強諸国に領土をかじりとられるようになります。いわゆる「中国分割」です。

フランスは東アジアへの進出をスムーズにするために、ロシアと同盟を組み、東アジアにおける利権を互いに認め合いました。このフランスの動きを警戒したイギリスは、東アジアの新興国・日本と同盟を結び、対抗します。これが1902年の日英同盟です。

 このように、アフリカではドイツを警戒して同盟を結んだイギリス、フランス。アジアではロシアとフランス、また、イギリスと日本の同盟関係が誕生しました。第一次世界大戦は日本を含めた列強諸国の複雑な同盟関係によって起きた戦争です。

そして1914年、ボスニアの首都サラエヴォで起きたオーストリアの帝位継承者が暗殺される事件が起こります。これが第一次世界大戦の開戦のきっかけとなった有名な事件です。様々な民族が住み、互いに対立するバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれるほど政情不安定な地域でした。

オーストリアは間もなく、セルビアに宣戦布告ドイツは属国であるオーストリアに軍事的な支援を行うカタチで参戦します。 しかし、一方のセルビアの後ろ楯であったロシアが軍を配備し、ドイツ・オーストリアを牽制しました。こうしたロシアの動きに対し、ドイツは先手を打つようにロシアに侵攻しました。その後、オスマン帝国もロシアに宣戦布告。こうして「敵の敵は味方になる」という法則にしたがって、ドイツ・オーストリアとオスマン帝国は手を結びました。

第一次世界大戦前夜

 

 

際限なき殺戮

 

 

 

総力戦の結末

 

 

注目すべきは、始まりはオーストリアとセルビアの戦争だったにも関わらずイギリスが結果的にかなりの利権を得たということです。

当時イギリスは‘3C政策’という政策を掲げていました。それは南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタ、そしてエジプトのカイロの利権を強奪するためのものです。

南アフリカのケープタウンはご存知のようにアパルトヘイト政策が行われていたところですがこれは南アフリカのダイヤ、金・銀などの資源をイギリスが強奪するために行われました。

そしてその強奪の過程で、‘ミルナー幼稚園’といわれたものがあり、このミルナー幼稚園児(?)とやらが活躍しました。このミルナー幼稚園児たちは全員ロスチャイルド家と繋がっていました。

インドのカルカッタはこれもご存知の‘東インド会社’をイギリスが運営して、金・銀、ダイヤ、紅茶、コーヒーなどの資源を強奪するためのものでした。ここで活躍したのがインド総督で、この総督になった多くの者もロスチャイルド家と繋がっていました。

そしてこの第一次世界大戦でエジプトのカイロを占領してスエズ運河の権益を得るのです。つまりこの3C政策はイギリスというよりはロスチャイルド家が行っていたのです。

さらに開戦直前の1914年6月15日、イギリスとドイツが協定に調印し、ドイツはバクダッド鉄道をバスラ以南に延長しないと約束しています。このバクダッド鉄道の重要性を認識していて主張していたのはイギリス家4代目当主ナサニエル・ロスチャイルドです。つまりこれもロスチャイルド家が主導して行われたイギリスの政策になります。

さらに1917年11月2日にイギリス外相バルフォアが「バルフォア宣言」なる宣言をし、ユダヤ人国家をパレスチナに建設する考えを打ち出したわけです。

第一次世界大戦がユダヤの頂点に君臨するロスチャイルドが利権を得るための戦争だった、とさえ思えてきます。そんなロスチャイルドに対抗したドイツの新興財閥があり、この大戦を両者がアフリカや中東地域の利権を強奪するためのチャンスととらえ、第一次世界大戦が4年4ヶ月もの長期で行われたということになります。第一次世界大戦に限ったことではありません。第2次世界大戦も日露戦争も、その他の多くの戦争もそうです。国家の利益のために行われるのではなく、ロスチャイルドのような財閥が金儲け、利権強奪するために引き起こされている事実です。

 

この戦争では三国同盟を形成したドイツ、オーストリア、イタリアと三国協商を組んだイギリス、フランス、ロシアが激しく争うことになります。ドイツを中心とした三国同盟側を同盟国。イギリスを中心とした協商側を第一次世界大戦では連合軍と呼びます。

ちなみにイタリアはオーストリアと仲たがいしていた為、後に連合国側で参戦することになります。

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各国が得たもの・失ったもの

■オーストリアの失ったもの 

大戦期間中に、従軍者120万人が戦死した。また、大戦期間中に、ロシア軍に領土内に侵入されたこともあり、一般人の死亡数も60万人に及んだ。戦没者総数は、約180万人であった。帝国は「消滅」した。帝国内にあった諸民族が独立、また皇帝カール1世が退位した。海外権益を放棄し、軍備は3万人に制限され、戦争責任を承認して賠償を課せられ、ドイツとの合邦は禁止された。

■ロシアの失ったもの

ロシアもまた、セルビア支援策の選択に関する判断を誤った結果、オーストリアと同様望まぬ大戦に引き込まれてしまい、最終的には下記の結果に。

ドイツ軍に領土内に侵入されたこともあり、一般人約114万人が死亡した。合計で300万人に近い合計戦没者は、第一次世界大戦での戦没者数としては、トルコに次ぐ大きさで、他の主要交戦国ドイツ・オーストリア・フランス・イギリス4ヶ国のどの国よりも多かった。ロシア革命が起こり、「帝政」は崩壊した。ブレヒト・リトフスク条約により、過去200年にわたってツアーがものにした欧州内の征服地のすべてを失った。

帝政ロシアの領土からは、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナが独立しました。帝政が終焉し、領土からは多数の独立国が生まれた点では、オーストリアと似ていますが、それでも人口は多く国土も広く、また後継政権は社会主義政権であり、第一次世界大戦後は他の国家とは異なる独自路線の発展の道をとった。

ドイツの失ったもの

1914年7月危機に際し、元はと言えばオーストリア対セルビアの局地的紛争にすぎなかったものを、欧州大戦に拡大させてしまったのはドイツ。

大戦期間中に、従軍者約200万人が死亡した。ドイツ国内の戦場化は期間も場所も限定的であったが、経済封鎖の環境下での経済政策の失敗から「カブラの冬」の事態を生じ、一般人約76万人も死亡、戦没者総数は約276万人。

休戦時のアメリカからの要求もあり、皇帝の退位と皇太子の継承権放棄により、帝政は廃止となった。

海外植民地を剥奪された。ヨーロッパの領土も、アルザス=ロレーヌはフランスに返還、シュレスヴィヒはデンマークに、ポーゼンなど東西プロシアの一部がポーランドに割譲され、面積において13%、人口において20%を削減された。

ライン河左岸は15年間、国際連盟の管理下におかれ、保証占領された。また、ザール河流域にある炭坑の所有権と採掘独占権はフランスに与えられた。

ドイツの陸軍兵力は、10万人に制限され、参謀本部・義務兵役制度は廃止された。海軍の軍艦保有量は10万トン、海軍兵員は1万5000に制限され、潜水艦の保有が禁止された。空軍の保有も一切禁止された。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の特別裁判、全宰相ヴェートマン=ホルヴェークらの裁判が定められたが、オランダが亡命者である皇帝の引き渡しを拒否し、裁判は実現しなかった。

賠償支払は定められたが、金額は1921年5月までに決定されることになった。

■フランスが得たもの・失ったもの

大戦期間中に従軍者約150万人が戦死、一般者の死亡約34万人と合わせて、戦没者総数は約184万人だった。
それに対して得たものについて。領土については、アルザス=ロレーヌを回復した。ザール河流域にある炭坑の所有権と採掘独占権を得た。ドイツからの賠償金を得ることになった。委任統治領として、ドイツ領であった東カメルーンと東トーゴ―ランド、トルコ領であったシリアを得た。

■イギリスが得たもの・失ったもの 

大戦期間中に従軍者約100万人が戦死、一般者の死亡約13万人と合わせて、戦没者総数は約113万人だった。

委任統治領として、ドイツ領東アフリカのうちタンガニーカおよび西カメルーン西トーゴーランド、トルコ領であったイラクパレスティナ、トランスヨルダンを得た。エジプトは保護国化した。また大英帝国の自治領であったオーストラリアとニュージーランドが、ドイツ領であった南洋群島のうち赤道以南を、南アフリカが同じくドイツ領であった西南アフリカを委任統治領として得た。

ドイツから賠償金を得ることになった。

■アメリカが得たもの・失ったもの

大戦期間中に従軍者約10万人が戦死、一般者の死亡は1000人程度であった。
得たものについてアメリカは、旧同盟国の領土は何も得ていない。ドイツからの賠償も得ていない。

そもそもアメリカの参戦は、すでに得ている巨大な経済的な利益を守るためであった、というのが実情でした。「巨額の資金が連合国に供与された。… 工場はイギリスとフランスの注文で時間外作業をした。経済は景気づいた。…もし連合国が戦争に負けたら、アメリカの貸し付けも失われるだろう。最後の手段として合衆国は、アメリカの繁栄がつづき、金持ちのアメリカがますます金持ちになれるために参戦したわけである。」(AJPテイラー 『第一次世界大戦』)

 

■オスマン帝国の失ったもの

サイクス・ピコ協定は第1次大戦中の1916年5月に、英国、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定である。既に述べたように、ローザンヌ講和会議で新生トルコ共和国はほぼ現在のトルコの領土を確保できたが、中東地域の分割は、ロシアが離脱した後、英仏の取り分に関して、ほぼこの協定の取り決めが生かされた。(モスル地区は英国領へ)

内容としては以下のとおりである。

シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。・シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)を英国の勢力範囲とする。黒海東南沿岸、ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡地域をロシアの勢力範囲とする。

 

この協定は周知のように、英国が中東のアラブ国家独立を約束したフサイン・マクマホン協定(1915年)や、英国がパレスチナに於けるユダヤ人居住地を明記したバルフォア宣言(1917年11月)と相矛盾しており、英国の三枚舌外交として批判されている。

また、1917年にロシア革命が起こると、同年11月に革命政府によって旧ロシア帝国のサイクス・ピコ協定の秘密外交が明らかにされ、アラブの大反発を強めることとなった。

サイクス・ピコ協定の分割交渉による線引きは後のこの地域の国境線にも影響している。長いこの地域の歴史や民族、部族分布を、言わば無視して人工的に引かれた不自然な国境線が、この地域にもたらした悪影響は大きい。「イスラム国」もサイクス・ピコ協定に怒りを抱いており、彼らが武装闘争を続ける動機の一つになっている。

 

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