皇帝たちの中国 第十代同治帝・十一代光緒帝

皇帝たちの中国 第十代同治帝・十一代光緒帝

【2月5日配信】「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち~第十代同治帝・十一代光緒帝」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】

 

清朝第10代皇帝(在位1861〜1875)。咸豊帝西太后の子。その治世は内政・外交の小康期で「同治の中興」と呼ばれる。1873年から親政を開始したが、実権は西太后に握られていた。

 

清の第11代皇帝である光緒帝(1871年から1908年)は、西太后の妹の男子である。

西太后には自分自身の男子がいた。第10代皇帝の同治帝(1856年から1875年)である。

西太后は同治帝をコントロールすることによって、清朝の実質的な支配者になっていた。しかし同治帝は19歳の若さで病死してしまう。

そこで西太后は当時わずか3歳であった光緒帝を即位させて自らの権力を維持したのだ。

光緒帝の皇后に選ばれた隆裕皇后(1868年から1913年)は西太后の弟である桂祥(けいしょう:1849から1913年)の娘であった。これも西太后の意向である。

余談になるが、ラストエンペラー溥儀を光緒帝の後継者(皇帝)に指名したのも西太后である。

光緒帝の時代に清朝は危機的な状況を迎えていた。

新疆などで内乱が勃発したために多額の国費を投じて抑え込んでいたが、光緒20年(1894年)の日清戦争に代表される外国との衝突も相次ぎ、帝国の屋台骨が揺らぎ始めていたのだ。

そんな中、光緒帝はいつまでも西太后の傀儡に甘んじていては危機を脱することはできないと考え、親政による政治改革を始めた。

この改革の支持者たちを変法派という。

変法派の中に西太后を排除する動きがあったことから、西太后は変法派への弾圧を開始した。光緒帝は軟禁され変法派の主要人物は処刑されたのである。

この事件を戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)という。

 

 

光緒帝と珍妃

 

光緒帝は西太后の親戚である隆裕皇后よりも珍妃(1876年から1900年)を寵愛した。珍妃は好奇心が強く聡明で非常に明るい性格の女性であったそうだ。

珍妃は13歳の時に姉とともに後宮に入っている。

その時の地位は「嫔」であった。嫔は皇后、皇貴妃、貴妃、妃に次ぐ5番目の位である。

光緒20年(1894年)に妃に昇格しているが、それでも序列から言えば4位であった。

しかし後宮の女性にとっては形式的な序列よりも皇帝の意思が重要である。

光緒帝は珍妃と生活を共にし、珍妃は光緒帝の政治改革を支持した。珍妃は本来なら清王朝における女性の実質的な最高位に到達していた人物なのだ。

しかし当時の清王朝は西太后の天下であった。珍妃は西太后から疎まれていたのである。

中国の後宮には罰則に違反した女性を軟禁する区域があった。そのような場所を冷宮という。

冷宮に押し込められるのは必ずしも罰則に違反した女性だけではない。

後宮は政治闘争の場である。讒言や陰謀によって冷宮に追いやられる女性も少なくなかったと言われている。

冷宮は自殺他殺が頻発する区域でもある。だから冷宮には恨みを抱いて死んだ女性たちの怨霊が潜んでいる。

霊的な禁区であり、政治的にも危険は冷宮は、華やかな宮廷の雰囲気からは隔絶された寂しく陰気な一角なのだ。

戊戌の政変後に珍妃は景祺閣(寧寿宫中路の北端)の裏にある小さな冷宮に追いやられた。珍妃の側近であった女官は解雇され、宦官の多くは処刑された。

冷宮に軟禁されてからの珍妃は西太后の息がかかった宦官に監視されることになったのだ。

光緒26年(1900年)に義和団の乱が勃発した。

義和団の乱は当初は義和団という秘密結社による排外運動であったが、西太后が「扶清滅洋」を掲げる義和団を支持して欧米列国に宣戦布告したため、国家間の戦争に発展した。

しかし清朝の軍事力はすでに弱体化していた。欧米列強国軍が北京に迫ると、西太后は西安に逃走している。

このときに光緒帝も北京を脱出している。

光緒帝は珍妃を連れて行くように懇願したが、西太后は逃亡の足手まといになるという理由で承知しなかった。それどころか外国人から辱めを受ける前に自殺するよう珍妃に命じたのである。

しかし珍妃は自殺を承諾しなかった。

怒った西太后は部下に命じて珍妃を井戸に投げ込ませた。そして万が一にも助からないように井戸の上から石を投げ込ませたのだ。

1年余りのあいだ珍妃の死体は井戸の底に沈んでいた。

欧米列国に多額の賠償金を支払うことで北京に戻った西太后は、珍妃の死体を引き上げて河北省・保定の崇陵妃園寝に埋葬させている。

この時点で西太后は、珍妃は井戸に身を投げて自殺したとの情報を流している。

珍妃が投げ込まれた紫禁城の井戸は現在でも残っている。

珍妃井と呼ばれるその井戸は一般に公開されているが、使用は禁止されている。

恨みを抱いて死んだ人の魂は、その土地をさまようと考えられている。日本にも地縛霊という観念があるが、中国でも同じ認識が共有されているのだ。

珍妃井の周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃されている。

また詩を吟じる女性の声や、すすり泣く女性の声を聞いたという証言も少なくない。

しかし本当の闇は珍妃井の周囲ではなく冷宮に隠されていると言われている。珍妃が幽閉されていた部屋は今でも非公開なのだ。

冷宮の陰気は珍妃井の周辺よりも濃いと言われている。

改革開放政策が始まる以前の北京では、故宮の警備体制が現在ほど厳格ではなかったそうだ。その頃の故宮には窃盗が立ち入ることがしばしばあったという。

故宮の敷地に侵入したところで何か金目のものがあるわけでもないから、実際にはほとんど被害はなかったそうだ。むしろ立ち入った窃盗のほうに思いがけない禍が起きていた。

珍妃が幽閉されていた冷宮の付近に近づいた窃盗の何人かが怪死しているというのだ。

どの窃盗もまるで巨大な鈍器で頭を叩き割られたかのような姿で死んでいたという。しかも凶器は一切見当たらなかったそうだ。

井戸に投げ込まれた珍妃は生きていたが、後から投げ込まれた石が命を奪ったと言われている。

そのときの死が再現されていたのかもしれない。

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