桜田大臣以外も全員無能だろ

桜田大臣以外も全員無能だろ

桜田大臣の辞任問題に関する3つの違和感

桜田義孝オリンピック・パラリンピック担当大臣は、4月10日に行われた高橋比奈子衆院議員(比例東北ブロック)のパーティーにおいて、「復興以上に大事なのは、高橋さんだ。よろしくお願いする」と発言していました。多くの失言を繰り返してきた同氏ですが、さすがに今回の発言は悪質であり、即刻更迭ということになりました。

桜田大臣以外も全員無能だろこの人事ですが、言語についてのスキルが低いにしても程度問題で、確かに呆れて物が言えないレベルと思います。言語を使えないということは、行政スキルがないということですから、大臣という職責を全うするのは難しく、更迭というのは当然の判断と思います。それはそうなのですが、桜田氏が言葉を操れないのは以前から分かっていたことで、今回改めて同氏を叩いても、社会的に意味があるとは思えません。それよりも、この「事件」について、一歩引いて見てみると、何点か違和感を覚えざるを得ないように思います。まず、安倍政権の「任命責任を問う」という「いつもの批判」があります。ですが、総理にしても「桜田氏が適任だとか、素晴らしい行政スキルがある」という判断で、このポストに据えたわけではないと思います。仮にそうなら、それこそ「人を見る目がない」訳で、総理として心配な状況になります。

問題はそうではないということです。違和感の第一は、こうした人事が起きる風土の問題です。今回の問題ですが、背景には長期政権になると積み残しの閣僚候補にポストを配らないと、党内の力学でしっぺ返しを食らうというシステムがあるわけです。閣僚に推薦している派閥の中でも、当選回数に配慮して閣僚に推薦しないと、文句を言われて困るとか、そうした事情も推察されます。

全く良いことではありません。そこで心配になるのは、企業にも似たような話があると思われることです。能力はない、でもここで本部長にしておかないと、社内で文句を言って面倒だ、というような理由で無能・無知な管理職が降ってくるということは良くあるわけです。その無能な管理職にブリーフィングをしなくてはならない専門職や中間管理職は、一気にブラックな世界に叩き込まれるわけです。

そう考えると、この問題の根というのは、日本社会独特の組織風土にありそうです。そう考えると、今回の事件は全く笑えない話であり、単に「桜田叩き」をしていれば済む話ではないと思います。

2つ目の違和感は、今回の発言に対するリアクションのあり方です。もちろん今回の「一人の政治家が復興より大切」というのは、復興の進まない被災地に対してはひどい発言であるのは間違いありません。ですが、その一方で、多くの政治家や識者が、「被害者の正義にタダ乗り」して思い切り叩くというのも、それはそれで、そろそろ見苦しいということにした方が健全かもしれません。と言いますか、被災地の実感としては、話題にするのもイヤなレベルの発言ではないかと思うのですが、どうでしょうか。

3つ目の違和感は、政局への影響という問題です。今回の桜田氏の一件にしても、あるいは塚田元国交副大臣の「忖度しました」発言にしても、非常に個別の事件であるわけです。それにも関わらず、塚田発言の場合は統一地方選で、そして今回の桜田発言の場合には、21日投開票の衆院大阪12区、沖縄3区の両補欠選挙への影響が取り沙汰されているわけです。

これもおかしな話です。こうした失言は、各地方自治体の政策にも、補欠選挙での対立軸とも全く関係がありません。では、どうして自民党はピリピリしているのかというと、世論の中に「長期政権への飽き」を感じているからです。失言問題で、票を失うことを恐れる裏には、この問題があります。

長期政権に弊害が伴うのであれば、「飽き」という直感的な世論がある種のチェック機能として働くということはあるかもしれません。ですが、現在の日本の政局では、政策の選択肢がほとんど見えていないのです。

つまり安倍政権のアベノミクスを批判するのは「結果が悪い」というだけで、では「引き締めや円高」に振って弊害を帳消しにすることが「可能」なのか、わかっている政治家はいないと思います。

外交もそうで、オバマとの相互献花外交にしても、トランプ操縦術も必死でやっている現政権を対米追随と批判するのは簡単ですが、ではアメリカを突き放しつつ経済と安全保障をより安定させる方策を持っている政治家もゼロでしょう。

つまり受け皿も代案もないわけです。そんな中で、「政権への飽き」がマグマのように渦巻き、それを利用して視聴率やビューを稼ぐ動きがあるというのは、あまり健全なこととも思えません。

いずれにしても、桜田発言については「問題外、即時更迭」で良いわけですが、その発言そのものよりも、その周囲で起きていることの方に違和感を感じてしまうのです。

 

冷泉彰彦

 

国民は何を求めているのか

 

本当の長期政権には、つねに諫言の士がいるものだ。私が諫言の士の代表格として挙げたいのは、中国の歴史上、最も栄えた王朝である唐(618~907年)の魏徴(ぎちょう、580~643年)だ。

よく知られているように、隋を倒して成立した唐は約300年続いたが、
魏徴は初代の高祖(李淵)、2代目の太宗(李世民)の2代に仕えた。2代目の太宗に仕えた期間が長いのだが、「瞬間湯沸かし器」のように激昂する太宗に向かって、200回以上も勇気をもって諫めたという。どんな組織でも、誤った道に進みそうになったり、過ちを犯したりすることがあるが、間違わないために、あるいは間違ったときに迅速に軌道修正をするためには諫言の士の存在が必要だ。

魏徴と太宗のやりとりは「貞観政要(じょうかんせいよう)」だけでなく、さらに後の時代のさまざまな儒教の教えの中でも出ているくらい、中国の長い歴史の中で諫言の士として圧倒的な存在感を持つ。もちろん、一方で、その魏徴の諫言を受け入れた太宗の度量の広さも評価されるべきだ。長期政権だった唐の歴史から学ぶことは、本当に多い。

ひるがえって、現在の国際政治を見ると、状況はどこも同じような感じがする。米国のドナルド・トランプ政権は言ってみれば「家族政権」。日本の安倍晋三政権は「お友達内閣」、中国やロシアにいたっては「事実上の独裁政権」だ。日本だけでなく、世界の主要などの国にも、唐の魏徴にあたる諫言の士がいない。

 

そもそも「民主主義とは何か?」と言われて、今わかりやすく答えられる人はどれだけいるだろうか。私に言わせれば、長い権力闘争を経て、英国の名誉革命(1688年)の時に国民的な人権が確立されたが、これが民主主義のなりたちかもしれない。

今はその西欧型の民主主義が危機に陥っている。形だけなら、どの国だって民主主義体制だ。中国の習近平国家主席やロシアのウラジーミル・プーチン大統領だって、「わが国は民主主義国家だ」と標榜している。少なくとも「表舞台」や「看板」は、みなそういうふうに見える。

だが、選挙など形式や手続きを踏んではいるが、大半の政権は「民主主義の仮面」をかぶっているだけになっていると酷評する人もいる。

米国の大統領選挙で政界未経験のトランプ大統領が誕生した。既存の政治が国民の信を失ったからだとも言える。英国、フランスの例を見てもわかるように、世界の既存の政治には、国民の不信感が強まっている。

昔は表舞台だけしか見えなかったが、今はネット社会になったこともあり、国民は「舞台裏」を見るようになってしまっているからだ。国民からの信頼をかろうじてつなぎとめているのはドイツのアンゲラ・メルケル政権くらいなものだと言う人が多い。

一度失った国民の信頼を取り戻すのは簡単ではない。米国のトランプ政権のように、「人事異動」をやっても、同じコップの中をグルグルとかき混ぜているだけのような状態となる。本当の信頼を取り戻すことはできないだろう。小池百合子・東京都知事も、今回の東京都議会選挙では都民から絶大な信頼を得たが、仮に「長期政権」「国政復帰」となれば、諫言の士が欠かせなくなるだろう。

では、国民は何を求めているのか。決して難しいことを要求してはいない。「うそをつかない人」「倫理観がある人」を求めているだけだ。日本の政権の中枢にそれがあるのか。今、それが問われている。

 

丹羽宇一郎

 

「適切な言動」は、本当に存在するのか

 

「適切な言動」とは、具体的にはどんな意味か。誰かの気分を害さないことだろうか? あるいは、伝えるべきことを臆さずに言うことだろうか? さもなければ、自分の立ち位置や役割に対する周囲の期待に即すことだろうか? それとも、それ以上の、以外の観点も踏まえることだろうか?

 

これらのすべてを満たすことができるなら、それに越したことはない。とはいえ、伝えるべきことを臆さず言うことで、誰かを傷つけることもあれば、誰かに配慮するあまり、自分の担う役目や役割を果たせなくなる場合があることは、誰もが経験済みだろう。

私たちは、問題にならなかったからと言って、そこでの言動が、必ずしも「適切」だったとは言えないことを知っている。さらに言えば、「配慮する」ということの中には、婉曲に表現することや、言及しないこと、場合によっては、嘘をつくことも含まれることを知っている。ある人にとっては「適切」でも、別の人には「不適切」だということはあり得る。このように考えると、何かの言動が問題化するか否かはその人の運次第だ、という結論に飛び付きそうになる。誰もが理解でき、納得のいく言動の「適切さ」などは無いのだ、と言いたくなる。

けれども、このように結論できるためには、少なくとも、次の前提を受け入れることが必要だ。つまり、もし言動の普遍的な「適切さ」があるのなら、それを誰もが直ちに理解できるに違いない、という前提だ。

この前提は自明ではない。理解できる人には理解できるが、そうでない人には理解できない、ということだってあるからだ。別の人が「不適切」だと思うのは、その人が、十分に理解できていないだけかもしれない。

ところで、私たちは学ぶことができる。少なくとも、そう信じられている。他者や書物からも、経験からも学ぶことができる。その過程の中で、どうにかこうにか、場面に応じた言動の「適切さ」を理解できる者になるのだとしたら、どうだろう?

その者が理解した「適切さ」は、さまざまな理由を比較考慮し「作り出した」結果かもしれないし、他の理由を退ける一つの理由を「見つけた」結果かもしれない。言動の適切さは、「発明」されたものか、それとも「発見」されるものか、という議論は倫理学上の一大テーマだが、大半の読者には、それよりも次のことのほうが重要だろう。

つまり、その場面での「適切な言動」はある、と私たちが考えている限りは、それを体現する人物となる努力は惜しむべきではない、ということだ。倫理学の古めかしい言い方を借りれば、「有徳」になる努力が必要だ。

この穏当な意見に賛同する読者が、賛同するがゆえに、著名人や公人の言動を気軽に非難するのだとしたら、非難されるべき対象には、自分自身も含まれることに気付かねばならない。

言動が非難される時には、しばしば、「プロ意識に欠ける」と言われる。著名人や公人は、その世界の「プロ」であるから、プロとして、自らの言動に配慮していて然るべきだ、というわけだ。実践的に、どのようにするかはともかく、この指摘が、自分の言動や価値観を自明視するのではなく、反省的になるべきだということを意味するなら、なるほど、軽率な言動は「プロ意識に欠ける」と言える。

市民は「政治のアマチュア」だから責任はない?

桜田氏の発言全体を読めば、何も目くじらを立てる必要はないではないか、という人たちも、桜田氏の発言が軽率だったことは認めるのではないだろうか。その意味では、政治家としての、あるいは担当大臣としての「プロ意識に欠けていた」と言う人もいるだろう。

それでは、私たち自身はどうなのか? 政治家は、政治のプロだ。だから、プロらしく振る舞うべきだ。そう考える人たちの多くは、返す刀で、自分たち自身は政治のアマチュアだとでも言うのだろうか。だから、プロ意識は持たずに、反省的になる必要もないと?

もし、そう考えているのだとすれば、それは見当違いも甚だしい。私たちは、日々政治的な活動に従事するわけではなくても、政治的な事柄に関心を持ち続けるのではなくても、私たちの誰もが主権者だというこの一事において、政治のアマチュアだと言い逃れるわけにはいかないのだ。それだから、「プロ市民」という言い方ほど、民主主義を毀損するものはない、と私は思う。

著名人や公人が「有徳」であり「プロ意識」を持つべきであるのと同じだけ、私たち自身も、本来、そうあるべきなのだ。繰り返せば、それは、ただ何かのスキルを持つだけではなく、自分の言動や価値観を自明視せずに、反省的になるということだ。

私たちは、他者や書物からも、経験からも学ぶことができる。私たちの外側の力を借りることができる。偉大な人物や難解な書物でなくとも、身近な人たちや娯楽作品からですら、多くのことが学べるのだ。

例を挙げよう。コンコルディア大学(カナダ)の政治学者・トラヴィス・スミスは、『アメコミヒーローの倫理学』の中で、マーベルやDCなどの、いわゆるアメコミ作品ですら、どのような人生を送るべきか、どのような徳性を示すべきか、そして、どのようにしてコミュニティに貢献できるか、という問いについて、私たちが考えるきっかけになると言っている。

彼によれば、例えば「キャプテン・アメリカ」は、愛国、あるいはナショナリズムを考える上で、示唆に富むキャラクターであるという。

 

アメリカが体現する「理想」を守ることに重点

キャプテン・アメリカは、その名が示す通り、そもそもはアメリカを守る愛国的な存在だった。スティーブ・ロジャースは、祖国アメリカのために、肉体をオリンピック代表選手のように、あるいは、それ以上に強化する人体実験に志願し、強靭な肉体を持つ兵士キャプテン・アメリカになるのだ。1941年に、コミックブックに初登場した時は、その表紙には、ナチスの総統に強烈なパンチを浴びせるシーンが描かれていた。

キャプテン・アメリカは、物語の中でこう述べている。「私たちのこの国は、困難な時期を度々迎えてきたかもしれない。……しかし、アメリカは最善を尽くして、常に人間の権利のために、専制者の支配に抗ってきたのだ! そして、もし、アメリカが専制者の権力と闘うために、その原理を支える人間を必要とするなら――それならば、神に誓って、私がそのような人間になろう!」

キャプテン・アメリカが初登場した当時、このキャラクターには、国威掲揚の側面があったことは否定しがたい。実際、彼の敵は、第二次世界大戦当時のドイツをはじめとした枢軸国であり、その後は、共産主義だった。しかし、トラヴィスによれば、キャプテン・アメリカの愛国心の描かれ方は、近年はとくに、アメリカの「利益」を第一にするのではなく、むしろ、アメリカが体現する「理想」を守ることに重点が置かれるようになっている。映画『シビル・ウォー』では、監視国家化するアメリカを憂いて、キャップは、アメリカを離れ、ワカンダというアフリカの国家に移ってしまった。

 

キャプテン・アメリカを通じて、作者たちが、私たちに訴えかけていることは何だろうか? それは、自分たちの祖国に対して、愛をもって義務を果たすとは、どのようなことであるべきか、ということだ。

それによれば、キャプテン・アメリカは、まさに愛国的である故に、祖国アメリカが、その「理想」を体現する国になるまで、たった一人でも抵抗する必要があることを示している。そして、自由であることと、責任を果たすことは両立すると示そうとしている。トラヴィスは、こう言っている。

キャップは、……自分のコミュニティに対する義務感は、政府への依存や献身とは異なることや、単に物質主義的な自己利益を拒否すべきであることを思い出させる。……そして、私たちを団結させるものは、私たちを分割するものよりも価値があることを、私たちに思い出させるのだ。

キャプテン・アメリカの物語からは、自由を謳歌するには、つまり、成りたい者に成れ、望むことができるためには、どのような徳を身に付けるべきかを学ぶことができる。それは、社会性のない無責任な私生活に退却するのでも、集団主義的で排他的なイデオロギーに執着するのでもなく、責任ある生活を送り、自発的に地域社会に貢献し、お互いの自由を守るために勇敢に立ち上がることを、私たちに奨励しているのである。

そして、それこそが祖国に貢献するということであり、単にメダルを持ち帰ることではないということを、私たちに教えているのだ。

オリンピックは、政治的な中立性を掲げているし、スポーツもフェアネスを大事にしている。しかしながら、オリンピックをめぐる数々の不祥事や、強まる商業主義的な傾向、あからさまな国威掲揚が、際立ってきているのも確かだ。オリンピックの理念やスポーツの精神が、机上のものにならないようにするためにも、自由を守り責任を果たすとはどのようなことなのか、トラヴィスが言うように、アメコミヒーローから学び得ることは、まだたくさんあるように思う。

 

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