匈奴

匈奴(きょうど、拼音Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 – 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

匈奴(きょうど、拼音Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 – 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

 中国の北方民族のなかで、モンゴル高原で遊牧生活を送っていた匈奴は、秦の始皇帝が中国を統一した前3世紀の終わりごろ、部族統一をなしとげ強力な国家を形成していた。彼らは騎馬遊牧民で馬上から弓を射ながらの攻撃は農耕民である漢民族の脅威となっていた。始皇帝は将軍蒙恬を派遣し、匈奴の勢力をオルドス地方から追い払い、またその南下に備えて万里の長城を建設した。



「匈奴」というのは彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており、その語源については諸説ある。葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説

  • 「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(中国語版)(Chiun-yü)」からきているとする説。ただし『史記』匈奴列伝の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔とする。当然のこととして、あくまで根拠の示されないお伽話であり信憑性はない[5]
  • 「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の音写「葷粥」「胡貉」「昆夷」「玁狁」に当てたとする説
  • 匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノヨン・オール(ノインウラ)匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説

また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたからついた河川名なのかは不明である。

読み

現在、「匈奴」は日本語の漢音で「きょうど」と読まれ、中国語(普通話、北京官話)では「ションヌゥ(Xiōngnú)」と読まれている。そして、中国史における呼称の例に倣い、非漢字圏各国における呼称も中国語に準じて”Xiongnu”と表記するのが一般である。しかし、中国語音韻学の研究によれば、前漢代における「匈奴」の発音は、各地の現在の発音とは大きく異なっていたと考えられている。まず、中国語音韻学の知見に基づく古典的な推定音[7]の代表的なものを下に記す。

「匈奴」の推定上古音(推定される秦漢期の発音)
研究者 カールグレン 王力 李方桂
発音記号 xi̯uŋ no xioŋ na hjuŋ naɡ
カタカナ近似 ヒュン・ノ ヒョン・ナ ヒュン・ナグ

しかし、上述のように、「匈奴」はあくまで漢代の中国人による漢字音写であることから、漢字の推定音がそのまま彼らの発音ではない。この点、中国語音韻学の研究と相前後して、歴史学者は様々な観点を加味して、「匈奴」がどのような発音を記していたのか(漢語の音写元となる発音)を考察している。

  • ドイツのG.Halounは古代中国語では「xbron-no」であったとした。
  • 白鳥庫吉は「奴(ヌ・ド)」の字が古代中国では「ナ」と発音され「Hu-na」、「Hun-na」であったとした[8]
  • 桑原隲蔵は「Hunni」であったとした[9]
  • 内田吟風は、ほぼ「flōŋ-nah」であったとし、フンを指すギリシア語の「Φροῦνοι」と関連し、ソグド人が前趙の匈奴人を「フン」と呼んでいたことと合わせ、「匈奴」の古代音は「フン」ないし「フルノイ」に近いものであったとした[10]

その他、欧ソの学者が断片的に様々な論考をした。

「フンナ(Hun-na)」説に関しては、五胡十六国時代のタリム盆地などにおいて匈奴人(前趙)のことを「フン」と呼んでいた事などから[11]、18世紀から現代に至るまで直接的に結びつける物から一部に関連があったとする物まで、様々な匈奴とフン族を結び付ける説(フン=匈奴説)が提唱されている。

史書による起源

史書における記述としては、『戦国策』、『山海経』、周朝の詔勅文書を集めた『逸周書』(いずれも戦国時代末期~前漢初期の成立)に匈奴の名が登場する。直接的な言及は、『戦国策』・燕策・燕太子丹質于秦に登場するのが最も早期のもので、仮託した記述としては、『逸周書』・王会篇・湯四方献令に殷・周の時代の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述がある。

考古学による起源

スキタイは近年、東方起源説が有力になっている。墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)-匈奴(ブリャーチャ)-サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたとされる

匈奴帝国

匈奴はいったん勢力が衰えたが、中国本土で項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成し「匈奴帝国」を実現させた。前201~200年漢の高祖は匈奴帝国の冒頓単于と戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物とともに匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。



紀元前210年、秦帝国と匈奴(上部)。

紀元前2世紀、匈奴の最大版図とその周辺国。Xiongnu khanate=匈奴、Chinese Han Dynasty=前漢、Greco-Bactrian Kingdom=グレコ・バクトリア王国、Mauryan Empire=マウリヤ朝、Seleucid Empire=セレウコス朝

戦国時代

紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。

趙の孝成王(在位:前265年 – 前245年)の時代、将軍の李牧は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破した。[

秦の時代

紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。単于の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。ある時、単于頭曼は太子である冒頓を人質として西の大国である月氏へ送ってやった。しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。

単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は漢楚内戦中の中国へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。

白登山の戦い

冒頓が北の渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁といった諸族を服属させた頃、中国では漢の劉邦が内戦を終結させて皇帝の座に就いていた。紀元前200年、匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、彼を降伏させることに成功した。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫った。そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲された。高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせその間に逃走した。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する。

楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を馬邑(現在の山西省朔州市朔城区)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んできた。

劉邦は32万の軍勢をひきつれて平城で匈奴を迎え討った。だが劉邦の本隊は、弱兵ばかりに見せかけた匈奴軍の偽装退却にだまされて進撃して孤立してしまい、白登山で包囲された。この時、匈奴軍は北方の軍団は黒馬、南方の軍団は赤馬、西方の軍団は白馬、東方の軍団は白面の黒馬に乗って漢軍を包囲していたという。

7日間包囲されていた劉邦は陳平の献策に従い、冒頓単于の閼氏に贈り物をして包囲の一角を開けさせた。劉邦の軍勢はそこから包囲を抜け出し、命からがら長安に逃げ帰ることが出来た。この時、漢軍兵士の10人に3人は凍傷で指を失っていた。

匈奴に敗れた劉邦は、匈奴へ貢納物を献上するという屈辱的な和平を結んだ。以後武帝の即位まで漢は匈奴に属国扱いをうけることになる。

西域を支配下に置く

紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪をはたらいた。そのため、漢の孝文帝(在位:前180年 – 前157年)は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせた。白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、楼蘭、烏孫、呼掲[18]および西域26国を匈奴の支配下に収めている。

中行説を手に入れ

冒頓が亡くなると、息子の老上単于(在位:前174年 – 前161年)が即位した。孝文帝は公主と貢納品を贈るが、随行員の中に中行説もいた。中行説は匈奴行きを何度か固辞したが否応なく使節の列に加えられ、匈奴へ着くなり漢に背いて匈奴の単于に仕えた。中行説は老上単于の相談役となり、漢への侵攻を促しては漢帝国を苦しめた。

武帝の登場

匈奴で軍臣単于(在位:前161年 – 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 – 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 – 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。

元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 – 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 – 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。

太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。

その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。

前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、匈奴の全盛期を迎えたが、前1世紀には漢の武帝の討伐を受けて次第に衰退し、漢が西域都護を置いた前59年頃、虚閭権渠(きょりょけんきょ)単于の没後にその子呼韓邪(こかんや)単于の東匈奴とその兄の郅支(しっし)単于の西匈奴が東西に別れて争うようになった。東匈奴は内モンゴルに残り、はじめ漢と同盟して西匈奴を滅ぼした。西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。東匈奴はさらに48年に南北に分裂する。

構成諸族の離反

壺衍鞮単于(在位:前85年 – 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。

漢の大将軍の霍光はこの情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていた。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じて攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還した。

壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(車延、悪師)の地を取った。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けた。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令、東の烏桓、西の烏孫から攻撃され、多くの兵と家畜を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化した。

匈奴の内紛と呼韓邪単于

漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮単于(在位:前60年 – 前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪単于(在位:前58年 – 前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれた。これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎える。やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されるが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支単于が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなる。呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結んだ。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居のもとに身を寄せたが、漢の陳湯と甘延寿によって攻め滅ぼされた。

こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされた。 一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青霍去病(かくきょへい)らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し、西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため、匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。

匈奴帝国の崩壊とその後のモンゴル高原

北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われて、匈奴帝国は完全に姿を消した。その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力である。匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。一方、南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に移動して定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。

民族系統

そもそもの「匈奴」すなわち、攣鞮氏を中心とする屠各種族の民族系統については、『晋書』四夷伝に「代の薰鬻代の鬼方代の獫狁、漢代の匈奴」とあるように獫狁、葷粥と呼ばれる部族が匈奴の前身である可能性が高い。

言語系統

すくなくとも非漢語(非中国語)であったことは史書より知られるが、匈奴語がどの言語系統に属すかについては、今日まで長い間論争が繰り広げられており、いまだに定説がない。18世紀から20世紀初頭のヨーロッパにおける匈奴史研究の主眼は、匈奴が何系統の民族(言語)であるかを解明することにあった。例えば、イノストランツェフの『匈奴研究史』(1942年、蒙古研究叢書)に代表されるように、匈奴がアルタイ語派のうちモンゴル系かテュルク系、またはウラル語派のうちフィン系かサモエード系などと確定することが、当時の匈奴研究の最大の関心事であった。こうした西洋の研究を受けて日本でも白鳥庫吉、桑原隲蔵らが中国史料に散見される匈奴語を抽出し、それらより匈奴の民族系統を探り当てることを研究の主眼としていた。しかし、宮脇淳子が指摘するように、多民族が融合する遊牧国家においては、中国文献に音写されたわずかな匈奴語が、今日のテュルク諸語やモンゴル語で解読されたとしても、それらが匈奴と呼ばれた遊牧民全体の言語系統を示す根拠とはされていない。

歴代単于

匈奴の歴代単于は代々屠各種攣鞮氏出身の人物によって世襲された。また、「単于」という君主号が頭曼以前からあったものなのか、頭曼から称すようになったのか、それとも冒頓から称すようになったのかは不明である。

統一匈奴帝国時代

  • 頭曼単于(頭曼、在位:? – 紀元前209年)
  • 冒頓単于(冒頓、在位:紀元前209年 – 紀元前174年)…頭曼の子
  • 老上単于(稽粥、在位:紀元前174年 – 紀元前160年)…冒頓の子
  • 軍臣単于(軍臣、在位:紀元前160年 – 紀元前126年)…老上単于の子
  • 伊稚斜単于(伊稚斜、在位:紀元前126年 – 紀元前114年)…老上単于の子
    • 右谷蠡王単于(在位:紀元前119年)
  • 烏維単于(烏維、在位:紀元前114年 – 紀元前105年)…伊稚斜の子
  • 児単于(詹師廬、在位:紀元前105年 – 紀元前102年)…烏維の子
  • 呴犁湖単于(呴犁湖、在位:紀元前102年)…伊稚斜の子、烏維の弟
  • 且鞮侯単于(且鞮侯、在位:紀元前102年 – 紀元前96年)…伊稚斜の子、呴犁湖の弟
  • 狐鹿姑単于(在位:紀元前96年 – 紀元前85年)…且鞮侯の子
  • 壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 – 紀元前68年)…狐鹿姑単于の子
  • 虚閭権渠単于(在位:紀元前68年 – 紀元前60年)…壺衍鞮単于の子
  • 握衍朐鞮単于(屠耆堂、在位:紀元前60年 – 紀元前58年)…烏維の耳孫

分裂時代

  • 呼韓邪単于(東匈奴)(稽侯狦、在位:紀元前58年 – 紀元前31年)…虚閭権渠単于の子
    • 屠耆単于(賢単于)(薄胥堂、在位:紀元前58年 – 紀元前56年)…握衍朐鞮単于の従兄
    • 呼掲単于(在位:紀元前57年)…呼掲王
    • 車犁単于(在位:紀元前57年 – 紀元前56年)…狐鹿姑単于の甥
    • 烏藉単于(在位:紀元前57年、紀元前56年)
    • 閏振単于(在位:紀元前56年 – 紀元前54年)…屠耆単于の従弟
    • 郅支単于(西匈奴)(呼屠吾斯、在位:紀元前56年 – 紀元前36年)…虚閭権渠単于の子、呼韓邪単于の兄
    • 伊利目単于(在位:紀元前49年)…屠耆単于の小弟

再統一時代

  • 復株累若鞮単于(雕陶莫皋、在位:紀元前31年 – 紀元前20年)…呼韓邪単于の子
  • 捜諧若鞮単于(且麋胥、在位:紀元前20年 – 紀元前12年)…呼韓邪単于の子、復株累単于の弟
  • 車牙若鞮単于(且莫車、在位:紀元前12年 – 紀元前8年)…呼韓邪単于の子、捜諧単于の弟
  • 烏珠留若鞮単于(嚢知牙斯、知、在位:紀元前8年 – 13年)…呼韓邪単于の子、車牙単于の弟
  • 烏累若鞮単于(咸、在位:13年 – 18年)…呼韓邪単于の子、烏珠留単于の弟
  • 呼都而尸道皋若鞮単于(輿、在位:18年 – 46年)…呼韓邪単于の子、烏累単于の弟
  • 烏達鞮侯単于(烏達鞮侯、在位:46年)…呼都而尸道皋若鞮単于の子

王莽が冊立した単于

  • 孝単于(咸、在位:11年 – 13年)…烏累若鞮単于
  • 順単于(助、在位:11年)…烏累若鞮単于の子
  • 順単于(登、在位:11年 – 12年)…烏累若鞮単于の子、助の弟
  • 須卜単于(当、在位:18年 – 21年)…須卜氏の右骨都侯

北匈奴

  1. 蒲奴単于(蒲奴、在位:46年 – ?)…呼都而尸道皋若鞮単于の子、烏達鞮侯の弟
  2. 優留単于(優留、在位:? – 87年)
  3. 北単于(名称不明)(在位:88年 – ?)…優留とは異母兄、右賢王
    • 於除鞬単于(於除鞬、在位:91年 – 93年)…北単于の弟

南匈奴

  1. 落尸逐鞮単于(比、在位:48年 – 56年)…烏珠留単于の子
    • 薁鞬左賢王単于(在位:50年)…北匈奴蒲奴単于の弟
  2. 丘浮尤鞮単于(莫、在位:56年 – 57年)…烏珠留若鞮単于の子、醢落尸逐鞮単于の弟
  3. 伊伐於慮鞮単于(汗、在位:57年 – 59年)…烏珠留若鞮単于の子、丘浮尤鞮単于の弟
  4. 僮尸逐侯鞮単于(適、在位:59年 – 63年)…醢落尸逐鞮単于の子
  5. 丘除車林鞮単于(蘇、在位:63年)…丘浮尤鞮単于の子
  6. 湖邪尸逐侯鞮単于(長、在位:63年 – 85年)…醢落尸逐鞮単于の子、醢僮尸逐侯鞮単于の弟
  7. 伊屠於閭鞮単于(宣、在位:85年 – 88年)…伊伐於慮鞮単于の子
  8. 休蘭尸逐侯鞮単于(屯屠何、在位:88年 – 93年)…醢落尸逐鞮単于の子
  9. 安国単于(安国、在位:93年 – 94年)…伊伐於慮鞮単于の子、伊屠於閭鞮単于の弟
  10. 亭独尸逐侯鞮単于(師子、在位:94年 – 98年)…醢僮尸逐侯鞮単于の子
    • 逢侯単于(逢侯、在位:94年 – 118年)…休蘭尸逐侯鞮単于の子
  11. 萬氏尸逐侯鞮単于(檀、在位:98年 – 124年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子
  12. 烏稽侯尸逐鞮単于(拔、在位:124年 – 128年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、萬氏尸逐侯鞮単于の弟
  13. 去特若尸逐就単于(休利、在位:128年 – 140年)…湖邪尸逐侯鞮単于の子、烏稽侯尸逐鞮単于の弟
    • 車紐単于(車紐、在位:140年)
  14. 呼蘭若尸逐就単于(兜楼儲、在位:143年 – 147年)
  15. 伊陵尸逐就単于(居車児、在位:147年 – 172年)
  16. 屠特若尸逐就単于(在位:172年 – 178年)
  17. 呼徴単于(呼徴、在位:178年 – 179年)…屠特若尸逐就単于の子
  18. 羌渠単于(羌渠、在位:179年 – 188年)
  19. 持至尸逐侯単于(於夫羅、在位:188年 – 195年)…羌渠の子、劉豹の父
    • 須卜骨都侯単于(在位:188年 – 189年)…須卜氏の骨都侯
  20. 呼廚泉単于(呼廚泉、在位:195年 – 216年)…持至尸逐侯単于の子

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